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この項目では、戦争犯罪に関する手記について説明しています。その他の用法については「三光 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
『三光』(さんこう)とは、第二次世界大戦後、中国の戦犯収容所に収容された日本人戦犯が執筆、神吉晴夫が編集し、光文社カッパブックスから出版された戦争犯罪に関する手記である。
出版の経緯
神吉は、1956年夏、中国の旅客機に乗った際、中国の日本人戦犯が軍事法廷で審判されるという『人民日報』の記事の中に、戦犯が自分たちの犯した罪を謝罪し、今後、平和のために尽くすと書かれていたことに興味を覚えた。[要出典]そこで、中国の新聞記者などのつてを頼り、82編、400字詰め原稿用紙1,589枚に及ぶ戦犯の手記を入手した。[要出典]当時、戦後12年がたって、改めて戦争に対する反省の念への議論の契機となることを願い、この本を出版する決心をしたという。[要出典]
出版後
- 本作刊行5年後の神吉の説明では、本作は「1カ月たらずして、発行部数が5万部を突破した。出版に対する賛否は両論である。右翼団体の訪問も何回か受けた。しかし、私は一回も恐迫を受けた覚えはない」と記されている[1]。他方、カッパ・ブックスの編集者・市川元夫は、陸軍中野学校出身で、当時鉄道弘済会広報室に勤務していた元憲兵曹長・宮崎清隆が、3・4人で来て、「戦争になればどこでもやる。自分も血の雨をくぐってきた。憲兵としてしかるべきことをやってきた。絶版にしろ」と神吉の前で述べた、と伝えている[2]。また、この後にカッパ・ブックス編集長となった塩浜方美は、発売直後、千枚通しを手にした男が神吉に迫ったため、二人の間に身を入れて制したが、塩浜はその場で、文藝春秋の池島信平に電話をいれ調停を依頼した、と伝えている[3]。
- さらに、塩浜の説明に拠れば、その年の5月1日、メーデーのデモ行進に対して、右翼団体員がトラックで乗り付け逮捕される事件があったが、その男の自供に「光文社から資金が出た」というものがあった。当時の右翼関係者の間では、光文社は右翼側の要求を受け入れ、『三光』は増刷を取り止めたことになっていた。1960年に再び、デモ隊に右翼団体のトラックが乗り込み、光文社の社員も怪我をする事件が発生したが、その際塩浜は、刑事から「だけど編集長さん、あのトラックの一部は、おたくのえらいさんが買ってやったようなものですよ」と説明された。1961年の嶋中事件後、塩浜は嶋中鵬二から、「こんなことになったのも、きっかけとなったおたくの『三光』事件でおたくがあまりにも弱腰だったからですよ。おたがいジャーナリストとしては責任を痛感してもらわなくては」と告げられ、編集者として責任を取るため光文社を去る決心をつけた、と塩浜は述べている[4]。
関連文献
- 神吉晴夫編『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』(光文社カッパ・ブックス、1957年)
- 中国帰還者連絡会編『新編三光 中国で、日本人は何をしたか 衝撃の告白手記. 第1集』(光文社Kappa novels ドキュメントシリーズ、1982年8月)ISBN 4-334-02479-3
- 中国帰還者連絡会編『三光 完全版三光』(晩声社、1984年5月)
脚注
関連項目