三国志演義
『三国志演義』(さんごくしえんぎ、繁体字: 三國演義; 簡体字: 三国演义)は、中国の明代に書かれた長編白話小説である。後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説で、四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。 概要後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり、すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を主役に据え、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録がある[1]。この講談は「説三分」とよばれた。元代には『全相三国志平話』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。 『三国志演義』は元末・明初に成立したと考えられる。上述のような蜀漢を正統とする潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開・要素を排し、黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の『三国志』の扱う範囲を収めている。「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と「王朝を支配し専横を振るう曹操」という対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。 『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。 本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物としても認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『水滸伝』とならんで掲載されていることが指摘されている[要出典]。吉川幸次郎は「『三国志演義』は明・清の中国において、もっとも広く読まれた書物だろう」と推測している[要出典]。 回目
毛倫毛宗崗本
年表と回目の対応
名称本書の書名は清代より『三国志演義』『三国演義』などと呼ばれ、一致を見なかった。民国期の小説研究では、魯迅『中国小説史略』、胡適『白話文学史』が全て『三国志演義』という名称を用いたが、新中国成立後[要出典]は『三国演義』に統一された。現在の中国では全て『三国演義』と呼称されている。また、嘉靖本の版本名から『三国志通俗演義』という名称が用いられることもある。 また、本書の成立当初から『三国志』と呼称されることも極めて多かった。これは歴史小説としての箔をつけるために、歴史書である『三国志』の書名を借りたものと思われ、李卓吾本系の版本を中心に『三国志』『三国志伝』といった名称が盛んに用いられた。しかし、通俗小説と歴史書が同じ名称で呼ばれたことで小説と歴史を混同する人々がいることは、清代から批判されてきた。現代中国においては、『三国演義』の呼称が徹底されており、日本からの輸入メディアを除いて三国志演義を元に作られた小説や映画等が『三国志』と呼ばれることはまずない。例えば民国期に作られた連環画『三国志』は、現代中国では『三国演義』という書名に改められて再版されている。 日本ではこのあたりの区別については鷹揚であった。戦前から幸田露伴・久保天随などが『三国志演義』あるいは『演義三国志』という呼称を用いており、戦後も立間祥介の訳本は『三国志演義』であり、研究者の呼称も同様であった。また岩波文庫の訳本、吉川英治の小説、横山光輝の漫画等が全て『三国志』という名称で刊行されている。日本国内における各種解説本などでこれらを区別する場合、『三国志演義』の記述を「演義」、『三国志』の記述を「正史」と呼び分けるのが通例となっている。 羅貫中と正史三国志元々の三国志講談を記録した『全相三国志平話』には至る所に史実の誤りが見られ、更に冒頭では史実にない冥土裁判の因縁話(この話は宋代からある古い講談ダネだと推測されている)、末尾では史実をねじ曲げて劉備の敵を孫の劉淵が討つ話が付け加えられていた[注釈 1]。羅貫中はこれを正史によって正し、正史『三国志』のみならず『後漢書』『晋書』を駆使して、「晋平陽侯陳寿史伝、後学羅本貫中編次」と署名を付け、正史の体裁に近づけるように原型を留めない書き直しをしている。平話に対する演義の分量はおよそ十倍である[注釈 2]。 作品内の人物像→詳細は「三国志演義の成立史」を参照
『三国志演義』の前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開する。そして、後半の主人公格である諸葛亮が登場すると、物語は彼の超絶的な知謀を中心に展開し、五丈原に最高潮を迎え、一気に収束する。作中のエピソードは史実に多くの脚色が施されて作られているが、重要な戦いの勝敗や重要な事件の結果はほぼ史実通りである。劉備が劉璋を騙して益州を攻め取ったり[注釈 3]、関羽や張飛の死をきっかけに自分勝手な振る舞いがかなり目立つようになったりと、劉備の善良なイメージを損なう話も書かれており、『三国志演義』は単純な勧善懲悪譚ではない。 曹操陣営の人物は天子を擁し専横を振るう悪役であり、しばしば姦計を巡らすが、作中の曹操陣営の姦計・悪事の多くは魏晋南北朝時代に書かれた『三国志』(陳寿著)・『後漢書』・『曹瞞伝』・『異同雑語』(孫盛著)等に出典があり、羅貫中の独創ではない。ただ、同じ事柄について諸説ある場合は、曹操について悪く書かれている説が採用される傾向が強いようである。ただし、曹操の没(七十八回)については長文の漢詩を詠んでこの功績を称えるなど、これまた必ずしも曹操を骨の髄からの悪党として描いているわけではなく、勧善懲悪譚の域を超えていることが指摘されている[注釈 4]。 『三国志演義』の戦争は華々しい猛将同士の一騎討ちが多く、呂布・関羽・張飛・趙雲らが卓越した武勇を発揮している。史書に一騎討ちの記録はほとんど無く[注釈 5]、名勝負とされる一騎討ちのほとんどは後世作られたものである。 清の毛宗崗は三絶(三人の傑出した人物)が登場すると述べ、智絶(知者のきわみ)の諸葛亮、義絶(義人のきわみ)の関羽、奸絶(悪人のきわみ)の曹操の三名の傑物を挙げる。とりわけ、義理と人情の化身として『演義』成立期以前より畏敬されていた関羽は、生涯に亘って焦点が当てられ他の武将とは別格の活躍をしている。また作中の諸葛亮は卓越した智謀の持ち主であるだけでなく、占いにより人の寿命を知ることができるなど呪術的な能力を持った人物として描写されている。 全体として主人公格である劉備・諸葛亮ら蜀漢陣営と、悪役である曹操ら魏陣営との対立を主に扱っているため、孫権ら呉陣営の取り上げられ方は相対的に善悪好悪の位置づけが曖昧であるが、蜀漢陣営との対立の物語の中には、呉陣営は弱体化された。諸葛亮の手ごわい敵として扱われる周瑜を除いて呉の人物像がぼやけている。また、主役である蜀漢陣営とは関係がないから[注釈 6]、呉と魏の間の戦争はほとんど省略され[注釈 7]、呉に「割拠」の印象を与える[注釈 8]。 『三国志演義』の登場人物の褒貶については、元明の民俗文化や朱子学の影響を強く受けており、したがって、歴史的評価を正確に反映するとは限らない[注釈 9]。 影響上記の通り『三国志演義』は士大夫の鑑賞に堪える水準に達しており、その用法は通俗小説の域を越えていた。明・清代には兵法書としても読まれており、実際に李自成・洪秀全は兵法の参考にしていたという(黄人『小説小話』)。 清代の順治7年(1650年)に刊行された満州語版『三国志演義』の巻頭には、大略「作中の善行を鑑とし、悪政を戒とし、国人に興亡の理を学ばせよ」という摂政睿親王(ドルゴン)の諭旨が収められた。また順治帝も桃園結義にならって蒙古諸汗と兄弟の盟約を結び、満州を劉備、蒙古を関羽になぞらえた上で、蒙古との関係を保つべく関帝信仰を公認した[4]。『三国志演義』が単に兵書として用いられるに留まらず、王朝の対内・対外政策の根幹に影響を与えていたことがわかる。 中国において「国父」と称される孫文は三民主義の民権を語る際に劉禅と諸葛亮の主従関係を例に出して述べている。 毛沢東は『三国志演義』を子供の頃から愛読し、「人民は阿斗になってはいけない」と発言するなど、『三国志演義』の登場人物を引き合いに出していたという。 国家的事業として中国中央電視台が1991年より製作した『三国志演義』は、制作費100億円・エキストラ10万人・製作年数4年・全84話にも渡る大作で、黄巾の乱から晋の成立まで描かれている。 中国本土では三国志ゆかりの場所が『三国史跡』として観光名所となっているが、『五虎大将軍の像』など『三国志演義』由来の要素も含まれている[5]。 三国志演義は、日本も含めアジア諸国でも広く受容されている。朝鮮語訳は1703年に現れた。金万重『西浦漫筆』には「今のいわゆる『三国演義』なる書物は、元人の羅貫中から出たものである。壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも盛んに流行し、女子供に至るまでみな口に出して読んでいる。」との記述があり、倭乱による戦乱を機に戦記物である『三国志演義』が朝鮮に広まったことが伝えられている。また、壬申倭乱に取材した歴史小説『壬申録』では、敵の倭将キヨマサ(清正)が攻めてきた際、赤兎馬に乗った関公の幻影が現れたため、清正軍が驚いて潰走するくだりがある。 東南アジアでは、タイ王国では、1802年にチャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が人気を博し、後のタイ語文学やタイの文章語の成立に影響を与えた。その後華僑が東南アジアを横行し中国文化が伝播すると、1883年にインドネシア語訳が現れ、1889年にマレー語訳が現れ、1907年にベトナム語訳が現れている。 1845年-1851年には、フランス語訳が現れている。英語訳についても、既に1925年の上海で訳本が現れている。英米での現行版は1976年にモース・ロバーツ(Moss Roberts)が、英訳した"Romance of the Three Kingdoms"である。1940年にはドイツ語訳が現れ、1954年にはロシア語訳が現れた。 日本における影響については「日本における三国志の受容と流行」を参照。 版本現存する最古の版本は明の嘉靖元年(「嘉靖本」。1522年)のものである。これ以後多くの版本が現れ、明末に広く通行した「李卓吾本」と呼ばれる系列の諸本は日本にも流入し、元禄年間に和訳が行われた際の底本となっている。現在、定本とされているのは清の康煕年間に刊行された毛綸・毛宗崗父子によって校訂・加筆を行って纏められた「毛本」であり、邦訳や出典も多くがこの版に拠っている。 日本語訳
派生した作品脚注注釈
出典
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク |