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上野秀政

 
上野 秀政
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 不明
死没 1582年
改名 堀弥八郎→上野秀政
別名 上野中務大輔、上野大和守、郡大和守[1]
幕府 室町幕府奉公衆
主君 足利義昭明智光秀足利義昭
氏族 堀氏上野氏
父母 半四郎?[2]
養父:上野清信
真木島昭光
勘左衛門?、御吉?[3]、五大夫?[2]、甚太夫?[4]
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上野 秀政(うえの ひでまさ、生年不詳 - 1582年)は、戦国時代武将明智光秀などに仕えた。堀 弥八郎(ほり やはちろう)は秀政が足利義昭若衆であった頃の名前[5]。後に郡大和守とも呼ばれたとされる[1]

生涯

『永禄六年諸役人付』によると、元来は足利義昭若衆であり、堀弥八郎と名乗っていた[5]

綿考輯録』によると、「山城国駒野の土民」であったとされる。

言継卿記永禄11年(1568年)10月22日条によると御供衆であったとされる[6]

綿考輯録』によると、秀政は「堀孫八郎」という名前であり、後に上野清信の養子となったとされる[注釈 1]が、また別の箇所では「山城国の地下人」や「堀孫八郎」であったのは清信とされており[注釈 2]、記述に矛盾が見られる。『綿考輯録』の編纂者も「清信が駒野の土民であったり、秀政が土民出身で清信の養子となったりといった伝承は不分明である」と記している[注釈 3]

真木島昭光の家臣として生まれたとも考えられている。[要出典]

1571年に大名であった織田信長が出した書状に「農民の押妨停止」の役人として上野秀政と明智光秀が候補として上がっている。また1572年には足利義昭側近の公方衆として細川藤孝三淵藤英、明智光秀らと共に仕えていた。その後は独立したとされる。

また、室町幕府内では早くから織田信長を敵視し、取次を務めていた武田信玄と通じて、足利義昭に信長排除を勧める中心人物であったとする見方がある[7][8]

1582年に起きた本能寺の変後、仕えていた明智光秀が死去したのち、真木島昭光が足利義昭のために秀政を暗殺したとされる[9]

末裔

『細川家家臣略系譜』によると、熊本藩に仕えた上野案十郎は上野中務大夫秀政の末裔とされ、半四郎-中務大夫秀政-五大夫-久五郎-久次郎-久-案十郎と続いたとされる[2]


脚注

注釈

  1. ^ 義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云ものを清信か養子とせらる、後上野大和守秀政と云。
  2. ^ 上野清信は山城国地下人成しか、童形の時、堀孫八郎と号し、南都にて義昭公江近侍、寵愛のあまり後に上野民部少輔信孝か養子と成、上野中務少輔清信と云。
  3. ^ 考に上野清信其身駒野の土民、又養子秀政土民成しとの事、不分明、然れとも上野清信といふ人義輝公御代より有て、義昭公江・若・越・濃御漂泊の砌も、藤孝君と同様に所々御使なとも相勤見へ申候間、南都にての寵童を清信養子に被下候との事実なるへき歟、又清信か子六左衛門を被召出あるひハ秀政か子を被召出との両説も不分明、また室町日記に、清信は義昭公御法体無程病死とあり。

出典

  1. ^ a b 『綿考輯録』
  2. ^ a b c 川口恭子『細川家家臣略系譜[1]
  3. ^ 『鹿苑日録』
  4. ^ 『与謝郡誌』
  5. ^ a b 『永禄六年諸役人付』
  6. ^ 『言継卿記』
  7. ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』第74号、2017年。 
  8. ^ 久野雅司「足利義昭の蜂起と〈天下静謐〉をめぐる抗争」『織田信長政権の権力構造』、戒光祥出版、2019年、P209-211.
  9. ^ 上野秀政とは 明智光秀の家臣に見られる奉公衆”. 武将人物情報・史跡情報「歴史観」. 2022年1月8日閲覧。
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

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