乾行(けんこう[12] / 旧仮名:けんかう)は日本海軍の軍艦[13]。元薩摩藩所有の3檣バーク型砲艦[2]。
乾行は「正道に従ってすこやかに努め行う」意味で、『易経』にある「渉大川乾行也」(大川を渉(わた)るや乾行なり)の句に由来する[12]。
概要
原名 "ストーク" (Stoyk) を薩摩藩が元治元年(1864年)に購入し、"乾行丸"と命名された[12]。戊辰戦争では寺泊沖海戦に参加し、旧幕府運輸船 "順動丸" を擱座・自焼に追い込む[12]。薩摩藩から新政府へ献納され、明治3年6月13日(1870年7月11日)に兵部省が受領、"乾行艦" と呼ばれた[12]。明治5年(1872年)から翌年にかけて機関が撤去され[14]、以降は練習艦として使用された。1881年(明治14年)9月12日に除籍、1889年(明治22年)3月に船体が売却された。
艦型
3檣バーク型砲艦[2]。機関は横置2筒機関で推進はスクリュープロペラだった[7]。機関は1872年(明治5年)から翌年にかけて撤去された[14]。
右上表の要目は主に『薩藩海軍史』[6]と『帝国海軍機関史』[3]による。その他の文献による船体主要寸法は以下の通り。
- 明治元年『公文類纂』:長さ27間[8] (49.09m)
- 『日本近世造船史 明治時代』:長さ177 ft (53.95 m)、幅23 ft (7.01 m)、吃水10 ft (3.05 m)[2]
イギリス軍艦ビーグル
元はイギリス海軍のアロー級砲艦 "ビーグル" (HMS Beagle)[15]とされる[12]。但し、"ビーグル" の建造はロンドンで1854年に竣工と日本側の"乾行" のデータと一致しない部分がある。
『海軍歴史』その他ではリバプールで1859年建造の "ストーク(ストルク)" とされている[1]。また『帝国海軍機関史』では「原名 ”ビーグル"、後に "ストーク" とあり[3]、通常上記の "Beagle" とされている[12]。建造年に関しては日本でも疑問が投げかけられており、「1854年から翌年にイギリス艦としてクリミヤ戦争に参戦し、船体に当時の弾痕が残されていた」ので建造はそれより古いとの意見があった[3]。また別に「クリミア戦争前にイギリスで建造された十数隻のうちの1隻」ともする[3]。
なおダーウィンの乗船した "ビーグル号" が後に本艦となったという話もあるが、年代が違い明らかな間違いである[12](ダーウィンの乗艦は3代目の "HMSビーグル" で、乾行は4代目 "HMSビーグル")[15]。
『薩藩海軍史』によると、"ストーク" は1859年出版の『世界の海軍』に「60馬力、砲20門」と既に記載があるという[6](建造はこの年以前になる)。また "ビーグル" は『世界の海軍』に「1854年製造、477噸、160馬力、砲4門」で載っており、"ビーグル" の方が "乾行" に近いとしている[6]。
艦歴
日付は明治5年まで旧暦とする。
薩摩藩時
原名は "ビーグル"、後に "ストーク"[3]。薩摩藩がグラバーから75,000ドルで購入[12]、元治元年(1864年)7月23日に長崎で受領した[1]。
慶応3年(1867年)11月の島津忠義上京の時、"乾行丸" は修理中だった[16]。
戊辰戦争
戊辰戦争では "丁卯丸" と共に北陸方面に進攻した[12]。慶応4年(1868年)3月18日鹿児島を出港、3月22日、長崎に寄港し、兵器等の準備を行い4月1日に出港、4月4日兵庫に到着した[16]。閏4月5日、三田尻に回艦し、長州藩軍艦と合議し、新政府軍応援の内命を受けた[16]。一旦兵庫に戻った "乾行丸" は閏4月14日に三田尻に到着、閏4月15日に下関着、"丁卯丸" と進攻の打ち合わせをした[16]。5月13日に "丁卯丸"、 "大鵬丸" と共に下関を出港、翌日隠岐島に入港し、同地の擾乱を平定した[16]。
5月16日、3隻は敦賀港着、以降輪島、蛸島、越後今町を経由して5月22日に柏崎に到着した[17]。同地を "丁卯丸" と同日発、陸上進軍の支援を行い、5月24日に出雲崎着、外輪船を砲撃、擱座させた[17](寺泊沖海戦)。この船は旧幕府側の "順動丸" で、自焼して失われた[12]。その後は5月26日に柏崎発、七尾港、小木港、新潟港と移動し、6月3日に柏崎に戻った[17]。この時は石炭が底をつき、薪を燃料にした[17]。6月11日に七尾着、ボイラー下の船体が焦げており、同地で修理に従事した[17]。新潟の陸上戦闘は苦戦しており、軍艦の応援が必要だったため、"乾行丸" の石炭は全て "丁卯丸" に移し、"丁卯丸" は2、3日の行動が可能になった[18]。
7月16日、"摂津丸" が七尾に入港、同艦は砲が破損していたため、"乾行丸" の砲4門と弾薬を移設、乗員24名も "摂津丸" に移乗した[19]。7月25日、松ヶ崎で陸兵上陸の援護、7月27日、28日は陸兵と共同で新潟を攻撃し、陥落させた[19]。この戦闘で "乾行丸" は陸上砲台からの砲弾2発を被弾した[19]。戦闘後は七尾に回航した[19]。8月11日、交代の "春日丸" が新潟に到着、"乾行丸" は8月26日、七尾を出港し帰国の途に就いた[19]。
鹿児島では藩主上京の任に着いた[19]。10月21日、横須賀に回航、以降同地で修理に従事した[20]。鹿児島への帰港日等は不明[20]。
献艦
明治2年(1869年)9月、薩摩藩から献納の申し出があり、10月に民部省から郵船に使用したいと申し出があった[21]。
明治3年(1870年)6月13日、兵部省が品川湊で受領した[4]。『海軍省報告書』では明治3年4月に鹿児島藩から献上されたとしている[22]。
維新後
明治3年(1873年)7月に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日に小艦隊3隊を編成、"甲鉄" と "乾行" の2隻は中島四郎( "甲鉄" に乗艦)の指揮で横浜港に派遣され[23][24][25]、"乾行" は8月9日に品川湊から横浜に回航した[26]。9月1日、一旦品川に戻り、同地で大砲備え付けの達が出された[27]。翌明治4年(1871年)3月7日に警備は解かれた[28]。
明治4年(1871年)5月に小艦隊が編成され、"乾行" も編入[29]、
真木長義中佐が "日進" "甲鉄" "乾行" "第二丁卯"4隻の指揮役になった[30]。"乾行" は7月に艦隊から除かれた[31]。11月15日、"乾行" は等級を五等と定められた[32]。
明治5年(1872年)2月29日、造船局の所轄となった[20]。5月18日に中艦隊が編成されたが "乾行" は編入されなかった[33]。以降中艦隊への編入は無い[34]。6月10日に兵学寮から"乾行" を機関撤去の上、稽古用(練習艦)に使用したいと申し出があり[35]、造船局で機関の撤去と修理を行った[14]。なお、撤去された機関は1876年(明治9年)に鹿児島造船所へ移された[36]。
1873年(明治6年)2月2日、"乾行" は主船寮所轄から提督府所轄になったが[37]、3月13日に主船寮所轄に戻された[38][39]。11月12日、修理が完成し、主船寮から兵学寮に引き渡された[40][注釈 3]。
1874年(明治7年)5月30日、海軍省の堀内に回航[41]、堀内で練習艦として使用された[42]。8月8日、艦位(等級)を五等艦と定められた[20][43][44]。
1875年(明治8年)5月18日、艦位を四等と改められた[38][45][46]。1880年(明治13年)1月20日、繋泊練習艦に定められた[47][3]。
廃艦
1881年(明治14年)9月12日に除籍(廃艦[43])、船体は現状のまま "摂津艦" 附属となった[48]。1882年(明治15年)7月8日、船体は東海鎮守府所轄となり、浦賀永泊となった[49]。1889年(明治22年)1月19日に売却が上申され[50]、1月25日認許[51]、3月に3,276円で売却された[52]。
艦長
- 伊東祐麿:明治 3年(1870年)3月 - 明治 3年(1870年)10月[53]
- (代理) 伊東祐亨 一等士官:明治3年(1870年)11月 - 1871年3月29日[54]
- (艦長代)柴精一:明治4年2月17日[55] -
- 濱武槇(浜武慎) 兵学小教授兼少佐:1873年12月12日[20][56] - 1877年10月31日[57]
- 大村松次郎 少佐:1877年10月31日 - 1878年5月18日[57]
- 濱武槇 少佐:1878年11月22日[57] -
脚注
注釈
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- 国立公文書館
- 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 明治元年から明治9年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。 明治12年7月から明治13年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092100。 明治14年7月から明治15年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092300。 明治15年7月から明治15年12月。
- 防衛省防衛研究所
- 『明治元年 公文類纂 完 本省公文/蒸気軍艦届 自5月 至12月 諸藩より所有艦船を届け出るもの(1)』。Ref.C09090001000。
- 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/弾薬船達章 2月 副長日比忠兵衛へ申付云々和泉丸乗組へ達』。Ref.C09090019800。
- 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/諸届 9月 乾行艦品海へ回艦云々』。Ref.C09090115300。
- 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/弁官往復 8月 龍驤外三艦損所出来に付出艦見合弁官へ届』。Ref.C09090125500。
- 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/海軍雑記 6月 乾行艦受取の式』。Ref.C09090134000。
- 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸達並雑記 6月 乾行艦へ物品渡方会計司へ達』。Ref.C09090134100。
- 『公文類纂 明治4年 巻11 本省公文 黜陟部8/海軍諸達 日進外3艦の内乾行鳳翔差替指揮の件真木中佐達』。Ref.C09090281300。
- 『公文類纂 明治4年 巻11 本省公文 黜陟部8/海軍諸達 柴誠一乾行艦長代の達他1件』。Ref.C09090287500。
- 『公文類纂 明治5年 巻25 本省公文 艦船部2止/丁3号大日記 兵学寮申出 乾行艦当寮稽古用御渡方の件』。Ref.C09110652600。
- 『公文類纂 明治5年 巻25 本省公文 艦船部2止/丙3号送達大日記 造船局へ達 乾行艦当寮稽古用御渡方の件』。Ref.C09110652800。
- 『公文類纂 明治6年 巻16 本省公文 艦船部2止/甲4套大日記 兵学寮申出 乾行艦附属端船御渡方』。Ref.C09111610200。
- 『公文類纂 明治6年 巻16 本省公文 艦船部2止/諸届留 兵学寮届 乾行艦修覆落成に付主船寮より引渡件』。Ref.C09111610900。
- 『公文類纂 明治6年 巻16 本省公文 艦船部2止/諸届留 主船寮届 乾行艦修覆落成に付主船寮より引渡件』。Ref.C09111611000。
- 『公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(2)』。Ref.C09112102000。
- 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(2)』。Ref.C09112104400。
- 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(6)』。Ref.C09112104800。
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- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
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- 公爵島津家編纂所/編『薩藩海軍史(下巻)』 明治百年史叢書 第73巻、原書房、1968年7月。
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- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 兵部省資料(防衛省蔵)