仏教の歴史
仏教の拡大について。紀元前6世紀 に始まるインド における仏教 の中心地(濃いオレンジ色)。仏教徒 が多数を占める地域(オレンジ色)。歴史的に仏教が影響をおよぼした地域(黄色)。大乗仏教 の伝播(赤色の矢印)、上座部仏教 の伝播(緑色の矢印)、密教 の伝播(青色の矢印)
仏教の歴史 (ぶっきょうのれきし)は、紀元前6世紀 に始まり、今日現存する宗教のなかも最古の部類である。仏教は、ゴータマ・シッダールタ の教えを基に、マガダ国 (摩訶陀国。梵 : Magadha 。現在のインド のビハール州 に存在)を中心とした古代インド の東部地域において発生した。その後、インド亜大陸 の北西部を経て中央アジア や東アジア に展開、また東南アジア にも展開し、各地域の文化に多くの部分に影響をおよぼした。
仏教の歴史は、数多くの活動や分裂、大乗仏教 (梵 : Mahāyāna ) 、上座部仏教 (梵 : Sthaviravāda ) 、密教 などの学派およびその発展や衰退の対比のなかに特徴が見られる。
仏陀の生涯
ゴータマ・シッダールタ (紀元前563年 - 紀元前483年 )の時代における古代インド の十六大国 。 十六大国 は主として肥沃なヒンドゥスターン平野 に位置しており、古代インド の歴史の中では他に数多くの小王国も存在した。
ゴータマ・シッダールタ (仏陀 、梵 : Gautama Śiddhārtha )は仏教 の歴史的創始者である。初期の文献によれば、彼は古代インド のコーサラ国 領にある釈迦族 (巴 : Sakka )の小国(現在はネパール 国内)に生まれた[ 1] 。このことから、彼は「釈迦牟尼(シャカムニ)」(釈迦族の聖者、梵 : Śākyamuni )として知られた。釈迦族 は氏族の会議体によって統治されており、ゴータマは支配氏族のひとつに生まれたため、バラモン (婆羅門)[ 2] と話す時には自らをクシャトリヤ [ 3] と称した[ 1] 。初期の仏典 では仏陀 の生涯は描かれていないが、紀元前200年頃以後の文書では様々な神話的脚色を含んだ伝記 (本生譚 、本生経)が残っている[ 4] 。これらの文書に共通して、ゴータマが氏族の長としての人生を放棄したこと、禁欲 的な修行者(沙門 )として一定期間生活して様々な師のもとで学んだ後に、禅定 (瞑想 )によって涅槃 (煩悩 を滅すること)と菩提 (仏 の悟り の智慧 の覚醒)を得たこと、が描かれている。
35歳の時に悟り を得てから80歳で入滅 (死去)するまでの45年間、仏陀 はインド 中央部のヒンドゥスターン平野 (ガンジス川 およびその支流の流域)をまわり、カースト 制度の中の様々な階層の人々に教えを広め、僧侶 を僧団(僧伽 )に参加させた。仏陀は弟子(仏弟子 )をインド全域に派遣し教えを広めさせた。仏陀はまた尼僧の僧団を形成した[ 5] [ 6] 。仏陀は仏弟子に対し、行った先の地域の言葉で教えを広めることを求めた[ 7] 。仏陀は、シュラーヴァスティー (舎衛城、梵 : Sāvatthī [ 8] )、ラージャガハ (王舎城、梵 : Rājagaha [ 9] )、およびヴァイシャーリー (毘舎離、梵 : Vāiśalī [ 10] )の近郊にいることが多かった[ 6] 。仏陀が80歳で入滅するまでに、数千人が彼に付き随った。
仏陀 の入滅 後 400年間の間に、仏教には様々な活動が見られた。部派仏教 (今日、上座部仏教 だけが現存している)の成立、および大乗仏教 、密教 および横断的な部派の成立である。新しい経典が受け入れられ、古い技術が改訂された。
仏教に帰依 する者のことを「仏教徒 」と呼ぶが、古代インド では「シャキヤン」(Sakyan)もしくは「シャキャビクス」(Sakyabhiksu) と自称していた[ 11] [ 12] 。
仏教学者のドナルド・S・ロペス (英語版 ) は、仏教徒が自らを「バウッダ」(Bauddha)と呼んでいたと主張している[ 13] 。一方、宗教文学者のリチャード・コーエン(Richard Cohen)は、「バウッダ」は外部の人間が仏教徒を呼ぶのに用いる言葉であると主張している。[ 14]
他の文献では お釈迦様は、母親である摩耶夫人(マーヤー)がルンビニーの花園で休んでいたときに、脇の下から生まれたとされています。そのときに9匹の竜が天から清浄の水を注ぎ、生まれ落ちたお釈迦様はすぐに7歩歩き、右手で空を、左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と言葉を発した 、という伝説があります。
29歳までは王子として生きていたお釈迦様ですが、人生の真実を追究するために出家します。修行を乗り越えて35歳で悟りに達し、仏陀となります。それから80歳までインドの各地で教えを説き、その後入滅しました。入滅とは、お釈迦様や高僧の死に対して使われる言葉 です。
初期仏教
「ハチンソンンの国々の物語」(Hutchison's Story of the Nations)インドの章において、マガダ国 のアジャータシャトル (阿闍世)王が罪悪感を鎮めるために仏陀を訪問したことを描いた図。
仏陀 の死後、僧伽 (僧侶 の集団。サンガ、 梵 : Saṃgha )はガンジス川 流域の中央部に残り、古代インド世界に徐々に広まっていった。資料では様々な僧伽が記録されており、それぞれの僧伽では口頭で伝えられた仏陀の教えを暗唱し体系化していったと同時に、集団における規律上の問題を解決していた。現代の仏教学は、このような伝統的な説明の正確性と史実性に疑問を呈してきた[ 15] 。
第1回の仏教徒の集会(結集 :けつじゅう、梵 : Saṃgīti )は、仏陀の死(パリニルヴァーナ (英語版 ) )後まもなく、上位の弟子(十大弟子 )の一人であるマハーカーシャパ (摩訶迦葉、大迦葉、梵 : Mahākāśyapa )が座長となり、マガダ国 のアジャータシャトル (阿闍世、梵 : Ajātaśatru )王の支援を受けてラージャガハ (王舎城、梵 : Rājagaha )(今日のビハール州 ラージギル ) にて開催されたと言われている。チャールズ・プレビッシュ(Charles Prebish)によれば、ほぼすべての学者がこの第1回の集会の史実性に疑問を呈している[ 16] [ 17]
時間がたつにつれ、分裂(根本分裂 。訳注:仏陀の死後約100年後の第2回結集 の際に分裂したとも言われる)した2つの僧伽 (上座部 (梵 : Sthaviravāda )と大衆部 (梵 : Mahāsāṃghika )はさらに様々な部派仏教 に分かれる。上座部 は、説一切有部 (せついっさいうぶ、梵 : Sarvāstivādin )、犢子部 (とくしぶ、 梵 : Pudgalavāda 、ヴァツィープトリーヤ(梵 : Vatsīputrīya )としても知られている)、法蔵部 (ほうぞうぶ、 梵 : Dharmaguptaka )、分別説部 (ふんべつせつぶ、 梵 : Vibhajyavāda )など、いくつもの影響力のある部派に分かれた。今日の上座部仏教 はこれらの部派の流れをくんでいる。一方、大衆部 は、説出世部 (せつしゅっせぶ、梵 : Lokottaravāda )所伝のマハーヴァストゥ (梵 : Mahāvastu )などの文書や、超越論的な学派である一説部 (いっせつぶ、 梵 : Ekavyāvahārika )に見られるように、初期から独自の学派と教義を形成した[ 19] 。この学派には、特に、ゴータマ・ブッダのすべての言行は、悟りの境地に達する前のものであっても、超越的ないし超俗的なものであったという思想により、後の大乗仏教 の予兆となる概念が見られる[ 19] 。
紀元前3世紀 には、アビダルマ (阿毘達磨、梵 : Abhidharma )と呼ばれる、それ以前の時代に存在した教義上の論点の集積(マートリカー、 摩窒里迦、梵 : Mātṛkā )を基に新しく体系化された教義を導入する部派 も現れた[ 20] 。アビダルマは、ニカーヤ (部。巴 : Nikāya 。[ 21] )とは種類が違う散文 の経典 ないしは対話形式の文章であり、教義が異なる部派 ごとに体系的に記述された様々なものが存在した[ 20] 。アビダルマはすべての経験を、ダルマ (法。梵 : Dharma )と呼ばれる究極の構成要素や現象ないしプロセスにまで分解し分析しようとした。
サーンチー (梵 : Sāñcī [ 22] 。)の第1のストゥーパ の南のトーラナ (塔門)に描かれた、クシナガラ (拘尸那掲羅、梵 : Kuśinagara [ 23] )の町に攻撃を受けているマッラ国 (末羅国。Malla)の人々。マッラ国の指導者は、仏陀 の「遺骨 (仏舎利 )をめぐる戦争」(War of the Relics)において、周辺国の7人の王に包囲された。マッラ国はガナ・サンガ国 [ 24] で、古代インド の十六大国 のひとつであったことが、パーリ語 経典のアングッタラ・ニカーヤ (増支部、巴 : Aṅguttaranikāya [ 25] )に記されている[ 26] 。
マウリヤ朝時代(紀元前322年 - 紀元前180年)
マウリヤ朝 (梵 : Maurya )のアショーカ王 (阿育王。梵 : Aśoka ) の治世(紀元前273年 - 紀元前232年 )に、仏教 は王室の援助を獲得してインド亜大陸 の大部分にまで拡大した[ 27] 。カリンガ国 への侵攻後、アショーカ王 は後悔の念を抱き、臣民の生活の改善に取り組み始めた。アショーカ王は人や動物のために井戸や宿泊所や病院を建設し、拷問や王族の狩猟旅行やおそらくは死刑をも廃止した[ 28] 。アショーカ王はジャイナ教 やバラモン教 といった非仏教徒の信仰も支援した[ 29] 。アショーカ王は、ストゥーパ (卒塔婆 。梵 : stūpa )を建立したり、人々にとりわけすべての動物の生命を尊重し、喜んで仏教の法 に従うよう記した柱を建設したりすることで仏教を広めた。彼は複数の仏教の文書に理想的な君主である転輪聖王 (てんりんじょうおう、梵 : cakravartiraajan )の模範として称えられている[ 27] 。
アショーカ王時代における仏教 の伝道活動の地図
マウリヤ朝 時代の仏教のもう1つの特徴は、仏陀 や他の聖者の遺骸(仏舎利 、巴 : sarīra )を収めた塚である、ストゥーパ に対する崇拝や畏敬である[ 30] 。これらの遺骸やストゥーパへの信仰の習慣は祝福をもたらすと信じられていた[ 30] 。マウリヤ朝 の仏教 遺跡 のなかで最もよく保存されている例はサーンチー の大ストゥーパ (紀元前3世紀 に遡る)であると思われる[ 30] 。
アショーカ王が残した石板や柱の記述(アショーカ王碑文 )によれば、仏教を広めるために、南はスリランカ 、西はグレコ・バクトリア王国 (バクトリア王国 )をはじめとしてギリシア 系の様々な国に使者が送られた。地中海世界 にも使者が送られた可能性がある。
上座部仏教 の文書によれば、アショーカ王は紀元前250年 前後にパータリプトラ (華氏城。梵 : Pātaliputra 。現在はインド 、ビハール州 州都のパトナ )において、長老のモガリプッタ・ティッサ (英語版 ) とともに第3回の仏教徒の会議(結集 。けつじゅう)を召集した[ 29] 。 会議の目的は王室の後援を目当てとした非仏教徒からの僧伽 の浄化であった[ 31] 。この第3回結集 の後、仏教の布教のための使者が、(当時マウリヤ朝が)把握していた世界各地に派遣された。
ヘレニズム世界における改宗
アショーカ王碑文 には、ヘレニズム 世界に仏教を広めることに努めたという記述がある。当時のヘレニズム世界は、ギリシア からインド との国境地帯まで途切れのない文化的連続体を形成していた。アショーカ王碑文からは、主要なギリシア人 国家の名前や所在地域が記されるなど、ヘレニズム世界の諸国家の政治組織について明確な理解がなされていたことが窺える。アンティオコス2世 (紀元前261年 - 紀元前246年 )のセレウコス朝 王国(首都は現在のトルコ のアンティオキア )、プトレマイオス2世 (紀元前285年 - 紀元前247年 )のプトレマイオス朝 エジプト 、アンティゴノス2世 (紀元前276年 - 紀元前239年 )のアンティゴノス朝 マケドニア 、キュレネのマガス (英語版 ) (紀元前288年 - 紀元前258年 )によるキレナイカ (現在のアフリカ のリビア )、アレクサンドロス2世 (紀元前272年 - 紀元前255年 )のエピロス (現在のギリシア 北西部地域)、などの国々が仏教への改宗の受け手として記されている。アショーカ王碑文の一節には下記のような記述がある。
「国境から600ヨージャナ(由旬 、5,400 – 9,600km)離れたところ、ギリシア人の王アンティオコス が統治するところ、その向こうにあるプトレマイオス 、アンティゴノス 、マガス、アレクサンドロス の4人の王が統治するところまで、南方においても同様に、チョーラ 、パーンディヤ 、タンバパニ (英語版 ) (スリランカ )に至るまで、ここに法 による支配は勝ち取られた。」(アショーカ王碑文 、第13大摩崖碑文 (英語版 ) 。S. Dhammika)
さらに、スリランカ の叙事詩 『マハーワンサ 』 (XII) によれば、アショーカ王の使者の中には、ダルマラクシタ (英語版 ) をはじめとしたヨナ (Yona )[ 33] と呼ばれるギリシア人 たちがいた。ヨナたちは、ギリシア語 とアラム語 で書かれたアショーカ王碑文 を建立した。現在のアフガニスタン にあるカンダハール から発見された碑文(カンダハール2言語併用碑文 (英語版 ) も参照。)には、ギリシア の社会に「敬虔さ」(ギリシア語 のエウセベイア (希 : εὐσέβεια 、 英 : Eusebeia )という用語を用いており、サンスクリット語 ではダルマ (梵 : Dharma )にあたる。)を採り入れるよう求めているものもある[ 34] 。
これらの交流がどの程度影響力があったか不明であるものの、ロベール・リンセン (英語版 ) は仏教 は当時の西洋 の思想 や宗教 に影響を与えたと述べている。リンセンは、当時のヘレニズム 世界にはアレクサンドリア (アレクサンドリアのクレメンス が言及)などに仏教徒 のコミュニティが存在したこと、西暦 紀元前 にテラペウタイ派 (英語版 ) (Therapeutae。パーリ語 の「テーラワーダ (上座部 ) 、巴 : Theravāda )」の変形の可能性がある[ 35] 。)という会派が存在し、彼らが「仏教 の禁欲主義 の教義と習慣からほぼ完全な形でインスピレーションを受けている」可能性があること [ 36] 、また彼ら自体がアショーカ王 が西洋 に派遣した使者の末裔である可能性さえもあること[ 37] を指摘している。キュレネのヘゲシアス やピュロン のような哲学者 は仏教の教義に影響を受けたと考えられることもある[ 38] [ 39] 。
アレクサンドリア (現在のエジプト 。)からは、法輪 が描写されたプトレマイオス朝 時代の仏教徒の墓碑も発見されている[ 40] 。アレクサンドリアに仏教徒が存在したことから、彼らがキリスト教 の修道院生活に影響を与えたかもしれない[ 41] 。2世紀 のキリスト教 の神学者 アレクサンドリアのクレメンス は、バクトリア [ 42] のシュラマナ (śramanas。沙門 のこと。)と、インド のギムノソフィスト (英語版 ) [ 43] の双方がギリシアの思想に影響を与えたと認識している[ 44] 。
スリランカにおける仏教の成立
スリランカ 北中部のアヌラーダプラ にある、世界最大の煉瓦 造りの建造物ジェータワナラーマヤ (英語版 ) [ 45]
「ディーパワンサ 」などのスリランカ の年代記 では、アショーカ王 の息子マヒンダ (巴 : Mahinda )が紀元前2世紀 にスリランカのあるセイロン島 に仏教をもたらしたことが記されている。加えて、アショーカ王の娘サンガミッタ (英語版 ) (Sanghamitta、巴 : Saṅghamitta )は、ビクニ(比丘尼、巴 : bhikkhunī )と呼ばれる尼僧修道会を設立し、仏陀 が成道 したブッダガヤ の菩提樹 の苗木をもたらしアヌラーダプラ に植樹した[ 46] 。マヒンダとサンガミッタはスリランカの上座部仏教 の伝説的な創始者とみなされている[ 47] 。 彼らは、デーヴァナンピヤ・ティッサ (英語版 ) 王(Devanampiya Tissa、紀元前307年 - 紀元前267年 )をはじめ、他の多くの上流身分の者たちを仏教に改宗させたといわれている。
最初の仏教建築 (英語版 ) は、ヴァサバ (英語版 ) 王(Vasabha、紀元前109年 - 紀元前69年 、第1ランバカンナ朝 (英語版 ) )の時代にさかのぼる[ 48] 。古代スリランカでの主な仏教寺院や学院は、アヌラーダプラ大僧院 (大寺、巴 : Mahāvihāra )、アバヤギリヴィハーラ (英語版 ) (無畏山寺、巴 : Abhayagiri vihāra )、およびジェータヴァナ(祇多林寺、巴 : Jetavana )である[ 49] 。パーリ仏典 は、戦争や飢饉が起こっても仏教の教えが保存されるよう、紀元前1世紀 に書かれた[ 50] 。パーリ仏典は、中期インド・アーリア語群 (英語版 ) (Middle Indo-Aryan languages)において完全な形で現存する唯一の仏典 である[ 51] 。パーリ仏典は、アヌラーダプラ大僧院 学派の伝統が反映されている。ブッダゴーサ (仏音(ぶっとん)、巴 : Buddhaghosa 、4世紀 - 5世紀 )やダンマパーラ (護法、巴 : Dhammapāla )など、後の上座部仏教 におけるアヌラーダプラ大僧院派のパーリ語 注釈者により、スリランカの伝統的仏典注釈書アッタカター (巴 : Aṭṭhakathā )が体系化された。
スリランカでは、アバヤギリヴィハーラ (英語版 ) 寺院やジェータヴァナ寺院において大乗仏教 が学ばれており、大乗仏教にも一定の影響があったが、パラークラマ・バーフ1世 (英語版 ) (Parakramabahu I。在位1153年 - 1186年 )はアバヤギリヴィハーラとジェータヴァナの影響を廃したため[ 52] 、アヌラーダプラ大僧院派が支配的なものとなった[ 53] 。
大乗仏教
インド のアーンドラ・プラデーシュ州 にあるアマラーヴァティーのストゥーパ (英語版 ) (Amarāvatī Stupa。ストゥーパは仏塔 のこと。)の浮き彫り 。
大乗仏教 (梵 : Mahāyāna 、「大きな乗り物」の意)やボーディーサットヴァヤーナ(梵 : Bodhisattvayāna 、「菩薩の乗り物」の意)として知られる仏教の運動は、大衆部 (だいしゅぶ、梵 : Mahāsāṃghika )および説一切有部 (せついっさいうぶ、梵 : Sarvāstivāda )の流れを取り入れながら、紀元前150年 から(紀元後)100年 の間のいずれかの時期に始まった[ 54] 。大乗仏教について記された最初の碑文は(紀元後)180年 にインド のマトゥラー で発見されたものにさかのぼる[ 55] 。
大乗仏教では、菩薩 (梵 : bodhisattva )の道と方便 (梵 : upāya )の道に重きをおいた。これらは大乗仏典 と呼ばれる一連の文書の中に、ゆるやかな結びつきを持ちながら複数箇所に現れた[ 56] 。大乗仏典は、「無数の世界において同時に説法 をしている他の仏陀がいる」といった新しい教えを広めた[ 57] 。やがて、大乗仏教の菩薩 や仏陀 は信仰の対象となる超越的な慈悲深い存在と見なされるようになった[ 58] 。
大乗仏教はインドの仏教界ではしばらくの間少数派であったが、ゆるやかに成長し、7世紀 に玄奘 がインドに渡った頃には約半数の僧が大乗仏教の僧であった[ 59] 。初期の大乗仏教には、中観派 (ちゅうがんは、梵 : Mādhyamaka )、瑜伽行唯識学派 (ゆがぎょうゆいしきがくは、梵 : Yogācāra )の学派、および仏性 (梵 : Tathāgatagarbha )についての教えが含まれていた。今日では、大乗仏教は東アジア およびチベット の仏教においては主要な存在となっている。
大乗仏典の中でも最古の部類に属する般若経 [ 60] [ 61] は、南インド のアーンドラ・プラデーシュ州 を流れるクリシュナ川 (Kṛṣṇa River)に沿った場所において、大衆部 の中で形成されたと主張する学者もいる[ 62] 。般若経 の最初の版を含む大乗仏典 は、 阿閦如来 に関する文献によれば、インド南部において紀元前1世紀 に記された可能性が高い[ 63] [ 64] [ 65] [ 66] 。インド学 者のA.K.ウォーダー (英語版 ) は、大乗仏教はインド南部に起源しており、アーンドラ国 であることはほぼ確実であると考えている[ 67] 。仏教学者のアンソニー・バーバー(Anthony Barber)とシュリー・パドマ(Sree Padma)も、大乗仏教の起源をたどると、アマラーヴァティー (Amaravathi 、梵 : Amarāvatī )、ナーガールジュナコンダ (英語版 ) (梵 : Nāgārjunikoṇḍa )、ジャガヤペタ (英語版 ) (梵 : Jaggayyapeṭa )などの町があるクリシュナ川 の下流域となると述べている[ 68] 。
シュンガ朝 (紀元前2世紀 - 紀元前1世紀)
紀元前2世紀 にかけて、サーンチー のストゥーパ は直径が約2倍になるほど拡大し、外の覆いは煉瓦 から石 に替わり、外周に石造の柵が設けられた[ 69] 。
シュンガ朝 (紀元前185年 - 紀元前73年 )はアショーカ王 の死後約50年後に成立した。マウリヤ朝 最後の王であるブリハドラタ が暗殺 された後、将軍のプシャミトラ が王座に就いた。アショーカ・ヴァーダナ (英語版 ) (梵 : Aśokāvadāna )などの仏典には、プシャミトラ (バラモン の出自)は仏教に敵対し迫害を行ったと記されている。仏教徒側の書物では、彼は「何百もの寺院を破壊し、何十万人もの罪のない僧を殺害した」と述べている[ 70] 。アショーカ王 の時代に建設された84万ものストゥーパ が破壊され、仏教徒の頭目を連れてきた者には金貨100枚が与えられたともいわれている[ 71] 。
しかしながら、現代の歴史学者の間では、これについて文献的、考古学的見地から異なる意見も存在する。アショーカ王 が仏教を支援していたためその後のシュンガ朝 では仏教教団はより困難な時期を迎えていたとは見込まれるものの、積極的に迫害を行った証拠は認められないというものである。ベルギー のエティエンヌ・ラモット (英語版 ) は、「文献から判断するに、証拠がないためプシャミトラ は無罪に相違ない」との見解である[ 72] 。インド の歴史学者 ロミラ・ターパル (英語版 ) は、「プシャミトラは狂信的な反仏教主義者ではないと示唆する考古学的な証拠があり、実際には仏教徒が文献で述べるような84万ものストゥーパの破壊は行われていない」と指摘している。ターパルは、仏教徒の記述はプシャミトラがマウリヤ朝 を攻撃したことを大げさに表現したものであり、シュンガ朝 における仏教の宗教的重要度が元に戻せないほどの衰退に直面したときの仏教僧団の絶望的な不満が単純に反映されたものである確実性が高いと強調している[ 73] 。
このシュンガ朝時代に、仏教徒の僧団は北の道(ウッタラパサ (英語版 ) 、梵 : uttarapatha )ないしは南の道(ダクシナパサ、梵 : dakṣinapatha )を通って移動し、ガンジス川 流域の地域から立ち去った[ 74] 。反対に、インドの旧マガダ国 の地域では美術的創造活動が止み、インド北西部のガンダーラ (梵 : Gandhāra )、北部のマトゥラー (Mathura)、南東部のアマラーヴァティー (Amaravathi 、梵 : Amarāvatī )周辺地域にその座を譲ることとなった。バルハット (英語版 ) など、インド中央部においても美術創作活動が興ったが、シュンガ朝 が貢献している可能性がある。
ギリシア文化の影響
最初期のグレコ・ブッディズムの仏像 。1世紀 - 2世紀 。ガンダーラ (梵 : Gandhāra )出土。
グレコ・バクトリア王国 の王デメトリオス1世 (治世:紀元前200年 - 紀元前180年 )はインド亜大陸 に侵攻してインド・グリーク王国 を建国し、(紀元後)1世紀 まで南アジア 北西部に勢力をとどめた。
仏教はインド・グリーク王国 やグレコ・バクトリア王国 のもとで繁栄した。インド・グリーク王国 の諸王の中で最も有名な王はメナンドロス1世 (ミリンダ王(弥蘭陀王)ともいう。治世:紀元前160年 - 紀元前135年 )である。彼は仏教に改宗した可能性があり[ 75] 、大乗仏教 の伝承では彼はアショーカ王 や後世のクシャーナ朝 のカニシカ王 (迦膩色迦、梵 : Kaniśka )と並び称される仏教の最大の後援者の一人とされている。メナンドロス 王の硬貨 には、古くからの仏教の象徴である、8本の輻 (や)をもつ法輪 が描かれているものもある。また、仏教文化とギリシア文化の直接の交流を示唆するものとして、彼と仏僧ナーガセーナ (那先、那迦犀那、龍軍、梵 : Nāgasena )との間に交わされた問答である、「ミリンダ王の問い 」(弥蘭王問経、弥蘭陀王問経、梵 : Milinda Pañha )が挙げられる。なお、ナーガセーナ はギリシア人 の仏僧マハーダルマラクシタ (英語版 ) の弟子であった。メナンドロス 王が死去すると、彼の統治下にあるいくつもの都市が彼の遺骨 を分けて譲り受ける栄誉を主張し、遺骨はストゥーパ の中に仏陀 の遺骨と並んで安置された[ 76] 。メナンドロス王より後のインド・グリーク王国 の後継者のうち、「仏法の信奉者」と自分が発行した硬貨にカローシュティー文字 (梵 : Kharoṣṭhī )[ 77] で刻み込む者が複数存在した。[ 78] 。
仏陀を、グレコ・ブッディズム (英語版 ) と呼ばれる写実的 な方法で最初に擬人化 して表現したものは、 紀元前1世紀 のインド・グリーク朝 統治地域に見られる[ 79] 。仏陀の表現様式における要素のうち、ギリシア の影響が指摘されるものは数多く存在する。例えば、ギリシア・ローマ のトーガ (長衣)のような両肩を被う波うったローブ (より正確には、ギリシア の「ヒマティオン 」の簡易版)、立像 において片足に体重がかかったコントラポスト の姿勢(1世紀 から2世紀 にかけてのガンダーラ における仏陀の立像 を参照[ 80] )、形が整えられた地中海 地方にあるような縮毛や頭部の形(ウシュニシャ (英語版 ) )が一見するとバチカン に保管されているギリシア神話 の神アポローン の石像(紀元前330年 。[ 81] )から派生するとみられること[ 82] 、顔を構成する比率がまるで計測されたかのようであり全ての要素が写実主義 によって表現されていること(ギリシア美術 も参照)などである。仏教とギリシアの様式や図像 を結びつけるような数多くの彫刻 が、アフガニスタン のハッダ にあるガンダーラ の遺跡から発掘されている。
大きな影響を残したギリシア人 僧侶の記録も残されている。マハーダルマラクシタ (英語版 ) (直訳すると「仏法の偉大な教師/守護者」)はギリシア人(ヨナ 、Yona )の僧団の指導者であり、インド・グリーク王国 のメナンドロス1世 の治世(紀元前165年 - 紀元前135年 )に、アラサンドラ(Alasandra。現在アフガニスタン の首都カーブル の北約150 kmのところにあるカフカスのアレクサンドリア (英語版 ) )から3万の僧を連れて、スリランカ のアヌラーダプラ にあるルワンウェリサーヤ大塔 (英語版 ) への献納のため訪れたことが、スリランカ の叙事詩 マハーワンサ (第29章[ 83] )に記されている。ダルマラクシタ (英語版 ) (「仏法に護られた者」の意)は、マウリヤ朝 のアショーカ王 が派遣した仏教 の伝道 使節の一人であった。マハーワンサ では、彼はギリシャ人(パーリ語 でヨナ )として描かれている。
クシャーナ朝とガンダーラ仏教
クシャーナ朝 の領域(実線)と、カニシカ王 の治世におけるクシャーナ朝 の最大領土(点線)。ガンダーラ 仏教もこの範囲で広まった。
クシャーナ朝 (貴霜、梵 : Kuṣāṇa 、30年 - 375年 )は、紀元前1世紀 に遊牧民 の月氏 が中央アジア のバクトリア に入ったことにより形成された。最終的には現在のインド 北部、パキスタン 、アフガニスタン の大半を領土におさめた。クシャーナ朝 は、バクトリア やインド・グリーク朝 のヘレニズム文化 を採り入れた[ 84] 。クシャーナ朝の統治時代では、ガンダーラ の仏教が影響力を強め、数多くの仏教の拠点が建設ないし復元された[ 85] 。クシャーナ朝統治下のガンダーラ の仏教美術 (ガンダーラ美術 )は、ギリシア ・ローマ 、イラン およびインド の要素を総合したものであった[ 86] 。
ガンダーラ語仏教写本 もまたこの時期にさかのぼる。ガンダーラ語 で書かれたこれらの写本 は現存する最古の仏教写本である(1世紀 頃)[ 87] 。リチャード・サロモン (英語版 ) によれば、これらの大半は法蔵部 (梵 : Dharmaguptaka )の学派に属する[ 88] 。
カニシカ王 (迦膩色迦、梵 : Kaniśka 、128年 - 151年 )は仏教を擁護したことで特に知られる。彼の治世において、ガンダーラ 地方の町ペシャーワル (梵 : Purusapura )が都とされ、ストゥーパ や寺院が建設された[ 89] 。クシャーナ朝 の王の仏教擁護があったことと、交易路 が拓かれたことから、ガンダーラ の仏教 がシルクロード を通じて中央アジア 、タリム盆地 、ひいては中華 地域にまで拡がっていった[ 89]
カニシカ王 はまた、説一切有部 のためにガンダーラ もしくはカシミール において仏教徒の会議(結集 )を開催したと言われている[ 90] 。カニシカ王 は博学な僧のうち500人を集め、アビダルマ について広範囲にわたる注釈をつけさせた。この中には既存の説一切有部 の経典の範囲内で実施可能な編集作業も含まれていた。この結集 の期間において、30万行の経典の詩句と900万の注釈語が編集され、完成まで12年を要したと言われている。この結集 の主要な成果は、説一切有部 のアビダルマ の教義のある部分の広範な抄録と文献参照をまとめた、阿毘達磨大毘婆沙論 (梵 : Mahā-Vibhāshā 、「大きな解釈」の意)として知られている注釈書の編集である[ 91] 。 エティエンヌ・ラモット (英語版 ) やデイヴィッド・スネルグローブ (英語版 ) などの現代の学者は、このような従来の説明の信憑性に疑問を呈している[ 92] [ 93] 。
学者たちは、この時期にはまた、 説一切有部 の経典が以前のプラークリット語 [ 94] からサンスクリット語 へ転換され、経典の言語にも大きな変化があったとの見解を持っている。経典の統一性を大きく失うような影響を伴わず変更が行われたものと推測されるが、サンスクリット語 はインド のバラモン教 では神聖な言語であったことから、特定の宗教 や哲学 への忠誠には関係なく他の思想家にも用いられる言語であり、はるかに幅広い人々が仏教の考えや実践に触れることができるようになるため、このことは特別な意義を持っていた。
7世紀 に玄奘 が南アジア を訪れた時期における、主要な仏教学版の中心地域を描いた地図 * 赤色: 輪廻転生 の主体にプドカラ (英語版 ) (補特伽羅、梵 : Pudgala の存在を認める補特伽羅論者 (英語版 ) (梵 : Pudgalavāda )ではない、つまり説一切有部 の学派 * オレンジ色: 法蔵部 の思想を持っていない、つまり分別説部 の学派 * 黄色: 大衆部 の学派 * 緑色: 補特伽羅論者 (英語版 ) の学派 * 灰色: 法蔵部 の学派
クシャーナ朝 が衰退したのち、いくつかの小国がガンダーラ 地域を統治し、その後エフタル が征服した(約440年 代 - 670年 )。エフタルの統治下でも、玄奘 が7世紀 にこの地を訪れたときに記したように、ガンダーラ仏教はアフガニスタン のバルフ (バクトリア )などの都市において繁栄を続けた[ 95] 。玄奘 は、この地の町ではナヴァ・ヴィハーラ など100を超える仏教寺院や数多くのストゥーパ や僧があったと記している[ 96] 。エフタル の支配が終わると、この地(ペシャーワル 盆地)におけるガンダーラの仏教も衰退した[ 97] 。しかしながら、パキスタン のスワート渓谷 (英語版 ) 、ギルギット 、カシミール や、アフガニスタン のバーミヤン などの近隣地域では、ガンダーラ仏教は繁栄を続けた[ 98] 。
中央アジアへの拡大
1世紀 の仏教の範囲および交易路
中央アジア はシルクロード として知られる国際交易路の本拠である。シルクロード を通じて、中国 、インド 、中東 および地中海世界 の間で商品が運ばれた。仏教は紀元前2世紀 頃から中央アジア 地域に存在した[ 99] 。最初は、法蔵部 が中央アジアに仏教を拡める努力に最も成功をおさめていた[ 100] 。ホータン王国 (于闐)は中央アジアにおいて最初期に仏教を取り入れた国の1つで、仏教をインドから中国に伝えるのに役割を果たした[ 101] 。
クシャーナ朝 が中央アジアの大部分を統一し、なおかつ仏教を擁護したことにより、中央アジア地域を通過する交易路に沿って仏教が拡まりやすくなる素地ができた[ 89] 。クシャーナ朝の統治下の(紀元後)1世紀 を通して、説一切有部 はこの地に繁栄し、また大乗仏教 の教えをこの地にもたらした僧もいた[ 99] 。仏教は最終的には現在のパキスタン 、カシミール 、アフガニスタン 、ウズベキスタン 、トルクメニスタン およびタジキスタン の地域に到達した。仏教がこれらの地域の多くに到達すると、仏教の僧は経典を翻訳し、コータン語 (イラン語群 )、ソグド語 (イラン語群 )、ウイグル語 (トルコ語 )、西夏語 、チベット語 、中国語 などの現地の言語で文書を作成し始めた[ 102] 。
碧眼の中央アジア の僧と東アジア の僧。中国 のトルファン にあるベゼクリク千仏洞 。9世紀 - 10世紀
中央アジア の人々は仏教を中国に伝えるのに重要な役割を果たした。仏典 を最初に中国語に翻訳した僧は、パルティア の安世高 (148年 )、月氏 の支謙 (しけん)、サマルカンド 出身の康僧鎧 (こうそうがい)などのイラン系民族 の者であった[ 103] 。仏典 の初期の翻訳者は37人が確認されており、その多くがイラン の文化圏の出身である [ 103] 。ゾロアスター教 を国教 とするサーサーン朝 ペルシア (226年 - 651年 )は、最終的には中央アジア の多くの地域(パルティア やソグディアナ )を支配下におさめたが、仏教 は容認した[ 103] 。7世紀中頃に起こったイラン高原 におけるイスラーム教徒のペルシア征服 とそれに続くイスラーム教徒のアフガニスタン征服 (英語版 ) 、そして中央アジアにおけるイスラム教 国ガズナ朝 (977年 - 1186年 )の成立が仏教の衰退につながり、最後には中央アジアの大部分の地域から仏教は姿を消した[ 103] 。
仏教は、新疆 やタリム盆地 など中央アジア東部でも繁栄した。カシュガル やホータン などのこの地域の大都市には、インド人 やイラン人 が住んでいた[ 103] 。この地域では敦煌文献 などの仏教文献や仏教の芸術作品が特に豊富に存在していたことが明らかにされている。 セリンディアン・アート (英語版 ) [ 104] はガンダーラ 様式を連想させる芸術であった。また、ガンダーラの仏典 の中からは中央アジアのカローシュティー文字 (梵 : Kharoṣṭhī )が発見された[ 105] 。8世紀 にウイグル帝国 (回鶻、回紇)が中央アジアを支配して先住のイラン 系住民と混じり合い、ウイグル人 は中央アジアの仏教文化を吸収した[ 103] 。ウイグル帝国 は後に、モンゴル人 の元 王朝に吸収された。中央アジアの仏典 には元 王朝の時代にさかのぼるものが多く、ウイグル語 、西夏語 、サンスクリット語 などで書かれていた[ 103] 。ウイグル人はまた石窟寺院 を復元し、ベゼクリク千仏洞 に見られるような仏教壁画を描いた[ 103] 。ウイグルの仏教は、トルキスタン 東部地域における最後の主要な仏教文化であり、14世紀 中頃まで続いた[ 103] 。新疆のイスラム化 以降、仏教は中央アジアにおいて主要な存在ではなくなった。
グプタ朝からパーラ朝までの時代
古代インド において仏教は、北部インドの大部分に秩序をもたらしたグプタ朝 (笈多、4世紀 - 6世紀 )においても繁栄した。クマーラグプタ1世 (英語版 ) (414年 - 455年 )などの王はナーランダー僧院 (那爛陀寺、梵 : Nālandā )を支援および拡大し、ナーランダー僧院は何世紀もの間、インド最大の最も影響力のある仏教の大学となった[ 108] 。ディグナーガ (陳那、梵 : Dignāga )は新しい学説[ 109] を教え、ナーランダー僧院は認識論(量 という)などの学問の中心地であり続けた[ 110] 。インド西部(現在のグジャラート州 )にはヴァラビ僧院 (英語版 ) (Valabhi)があり、5世紀 においてはナーランダー僧院に次いで2番目の位置にあった[ 111] 。グプタ様式[ 112] の仏教美術 の影響は、仏教の伝播とともに東南アジア や中国 にまで及んだ。この時期に、中国 からの巡礼の僧がインド に仏教を学ぶために訪れた。
法顕 もこれらの巡礼の僧の1人であり、 チャンドラグプタ2世 (超日王)の治世の405年 にインドを訪れ、グプタ朝 の繁栄や穏やかな統治について記した。グプタ朝の終焉後の7世紀 にインドを訪れたのは玄奘 である。インド中を巡る中でかれは仏教が現在のインド南部のアーンドラ・プラデーシュ州 やタミル・ナードゥ州 にあたる地域で栄えていることを記した[ 113] 。 玄奘 は、現在のネパール において多くのストゥーパ が放棄され、現在の西ベンガル州 にあったガウダ王国 (英語版 ) ではシャシャーンカ王 (英語版 ) による仏教迫害が行われていることを記した一方、ヴァルダナ朝 のハルシャ・ヴァルダナ 王(戒日王。590年 - 647年 )の支援を受けたことを称賛した。彼はまた、様々な地域で仏教 はジャイナ教 やヒンドゥー教 に取って代わられていたことも記している[ 114] 。
ヴァルダナ朝 が衰退すると、ガンジス 平原には多くの小国が反目しあう状態となった。この状態はパーラ朝 (8世紀 - 12世紀 )がベンガル地方 に興るまで続いた。パーラ朝 は仏教を確固として支援し、ヴィクラマシーラ僧院 (超戒寺、梵 : Vikramaśilā )、ソーマプーラ寺院 、オーダンタプリー寺院 (英語版 ) などのいくつかの重要な仏教の拠点を設立した[ 115] 。パーラ朝 はナーランダー僧院 やブッダガヤの大菩提寺 などの旧くからの仏教の拠点も支援した。これらの仏教僧院では、アビダルマ 、中観 、仏教論理学 などの仏教の研究や、言語学 、医学 、天文学 、音楽 、絵画 、彫刻 などが研究されていた[ 116] 。アティーシャ (月蔵、燃灯吉祥智、梵 : Atiśa )やシャーンタラクシタ (寂護、梵 : Śāntarakṣita )などの学僧はこの時代に輩出された。このように、パーラ朝 時代に大乗仏教 が繁栄し、チベット 、ブータン 、シッキム などに伝播した。
1193年 にムハンマド・バフティヤール・ハルジー 配下のトルコ人 イスラム教徒 の侵略者によってナーランダー僧院 が火にかけられた事件が重要な節目となり、インド北部地域の仏教は衰退に向かった。インドのビハール からベンガル にかけての仏教徒 の拠点をデリー・スルターン朝 のムハンマド・バフティヤール・ハルジー 配下のイスラム教徒 が征服し、仏教に対する政治的支援がなくなり社会的圧力が強まったため、12世紀 の終わりまでには、仏教の活動範囲は北はヒマラヤ 山麓まで、南はスリランカ まで後退した。加えて、ヒンドゥー教 における不二一元論 の台頭やバクティ運動 (英語版 ) など、ヒンドゥー教 再興に向けた動きに伴って仏教の影響力は弱まった。
密教
カルティカ (英語版 ) (kartika[ 117] )とカパーラ (英語版 ) [ 118] を持つ密教 のマハーカーラ 像。
グプタ朝 およびパーラ朝 の時代に、密教 の運動が興り、ヴァジュラヤーナ(金剛乗、梵 : Vajrayāna )、マントラヤーナ(真言乗、梵 : Mantrayāna )などの名前でも呼ばれていた。密教 は、マントラ(真言 )、ダーラニー(陀羅尼 )、ムドラー(印相 )、マンダラ(曼荼羅 )と呼ばれる神や仏陀 の視覚化などの新しい実践法を行い、タントラ と呼ばれる新しい文章表記[ 119] を発展させた。密教はマハーシッダ (英語版 ) (大成就者、梵 : mahāsiddha )と呼ばれるヨーガ(瑜伽 、梵 : yoga )の巡回修行者の集団にさかのぼることができる[ 120] 。
王室が仏教 とヒンドゥー教 シヴァ派 (シヴァ (自在天)を最高神として崇拝)の双方を後援した結果、仏教のヨーギニー・タントラ[ 121] をはじめ、様々な密教文献が発達した[ 123] [ 124] 。分類上クリヤー・タントラ(所作タントラ 、梵 : Kriyātantra )[ 125] の1つに分類されるマンジュシュリー・ムーラ・カルパ (英語版 ) (梵 : Mañjuśrī-mūla-kalpa )[ 126] には、シヴァ (自在天)、ガルダ (迦楼羅天)、ヴィシュヌ (ヒンドゥー教 の神)に属するマントラ であっても、それらは全てもともとは文殊菩薩 の教えたものであるため、仏教徒 が唱えれば有効となることが記されている[ 127] 。秘密集会タントラ (梵 : Guhyasamāja )の流れを汲む、パドマヴァジュラ(Padmavajra)の著作である「グヒヤシッディ」(Guhyasiddhi)では、シヴァ派 の指導者のようにふるまい、信徒にシャイヴァ・シッダーンタ (英語版 ) 派(聖典シヴァ派)の経典やマンダラ の真義に導き入れるよう指示している[ 128] 。「チャクラサンヴァラ・タントラ (英語版 ) 」(チャクラサンヴァラは「勝楽金剛」)はシヴァ派 の文献「タントラサドバヴァ」(Tantrasadbhava)から巡礼 地の一覧を取り入れているが、神の名と巡礼地の対応を取り違える写し間違いが起こっている[ 129] 。
チベット仏教
仏教は7世紀 後半にチベット に到達した。チベット 南部を経由して伝わった仏教の形は、インド東部のベンガル 地方にあるパーラ朝 の僧院からもたらされた大乗仏教 と密教 が混合したものが大勢を占めていた[ 130] 。 説一切有部 は南西方向のカシミール 地方から[ 131] 、および北西方向のホータン から到達した[ 132] 。これらの文献がチベット大蔵経 となり、チベット人 にとって上座部仏教 についてのほとんど全ての基礎的な経典の源となった。説一切有部 の分派である根本説一切有部 (梵 : Mūlasarvāstivāda )は、チベット仏教の律 を保有していた[ 133] 。禅 がチベット を経由して中国 にもたらされ影響を与えたが、初期においては政治的重要度はほとんど持たなかった[ 134] 。
チベットでは仏教は当初から、貴族の支援を受けていた土着のボン教 と対立していたが、王室の支援を受けてからは勢力を強め[ 135] 、ティツク・デツェン 王(レルパチェン(Rälpachän)の綽名。817年 - 836年 )の治世に最盛期を迎えた。仏典 のチベット語 訳の用語用法が825年 に標準化され、高度に元の言語に即した翻訳方法をとることが可能となった。ラン・ダルマ 王(836年 - 842年 )の時代には仏教の影響は一転して弱まり始めたものの、続く数世紀ではインド から収集可能な仏典 の獲得に大きな努力が払われ、収集した経典の多くはチベット語 訳でのみで現存している。チベット仏教 は、中国 とモンゴル を合わせた帝国である元 王朝(1271年 - 1368年 )においては、他の宗教と比較して支配者から特別の扱いを受けた。
東アジアの仏教
中国
仏教は紀元後50年 頃までには中国 に伝わった。[ 136] 。考古学的な記録によれば、仏教が中国に伝わったのは漢 王朝時代(紀元前206年 - 220年 )のいずれかの時期であると確認されているが、六朝 時代(220年 - 589年 )までは中国 では繁栄していなかった[ 137] 。仏典 の最初の中国語 への翻訳は、パルティア (安息)人の安世高 (148年 - 180年 )によるものであった[ 138] 。大乗仏教 の経典を最初に中国語 に翻訳 したのは、クシャーナ朝 の僧ローカクシェーマ (支婁迦讖、しろうかせん、梵 : Lokakṣema )で、洛陽 において178年 から189年 の間に翻訳が行われた[ 139] 。初期の訳経僧 は、外国の仏教 の概念を中国語 で意思疎通する困難に直面し、仏教の概念を説明するのに道教 の用語を用いたことも多かった。これは「格義 」と呼ばれている[ 140] 。後の時代の訳経僧である鳩摩羅什 (くまらじゅう、梵 : Kumārajīva 、334年 - 413年 )は、仏典の中国語への翻訳方法を大幅に改善した。[ 141]
中国で出土した最初期の仏教の工芸品には、(紀元)200年 にさかのぼる揺銭樹 (中国語版 ) (ようせんじゅ、「金のなる木」の意)という彫刻の上部にある小さな彫像などが挙げられ、典型的なガンダーラ 様式となっている[ 142] 。460年 から525年 までの北魏 王朝の時代には、雲崗石窟 や龍門石窟 が中国人 によって造られ、巨大な仏像が岩に彫られている。5世紀 には、中国の仏教は天台宗 、華厳宗 、浄土教 、禅宗 (中国禅。Chan Buddhism 参照)などの新しい宗派を発展させた[ 143] 。
仏教は唐 王朝(618年 - 907年 )初期まで拡大を続けた。この唐 王朝の時代に中国の僧玄奘 がインド に渡り、657巻の経典 、仏舎利 、仏像 を持ち帰った[ 144] 。玄奘は唐 の都長安 (今日の西安 )に訳場を設立し、瑜伽行唯識学派 の仏典を翻訳した。唐 王朝の時代にはまた、(中国)密教がインドから伝わった [ 145] 。また、禅宗 (中国禅)も、馬祖道一 や臨済義玄 などを輩出し勢力を拡大した[ 146] 。唐 王朝後期には、中国の仏教は845年 に会昌の廃仏 の被害にあった。
仏教は宋 王朝(960年 - 1279年 )の時代に復興した。宋 代は禅 の黄金時代と言われており[ 147] 、韓国 や日本 の仏教にも影響を与えた。浄土教 も宋代に大衆に浸透し、禅 と合わせて修されることも多かった[ 148] 。宋代にはまた、漢語の仏典がすべて印刷 にかけられ、13万枚以上の版木 が使用された[ 149] 。
元 王朝の時代に、チベット仏教 が国の正統な宗教となった[ 150] 。明 王朝(1368年 - 1644年 )の時代には、禅 は中国の仏教において有力な宗派となり、他のすべての宗派が禅宗の傘下となっていた[ 151] 。17世紀 には、仏教は中国人の移住者 によって台湾 に伝播した。[ 152]
ベトナム
ベトナム の首都ハノイ にある大乗仏教 の寺院である一柱寺 (英語版 )
仏教が正確にいつベトナム に伝わったかについては議論が分かれている。紀元前3世紀 ないし(紀元)2世紀 にインド を経由して伝わったか、1世紀 ないし2世紀 の間に中国 から伝わったかの可能性がある[ 153] 。いずれにせよ、大乗仏教 は ベトナム に2世紀 までに存在していた。9世紀 までには、浄土宗 およびベトナム禅 (英語版 ) が主要な仏教の宗派となっていた[ 152] 。ベトナム 南部にあったチャンパ王国 (林邑、占城)においては、15世紀 までヒンドゥー教 、上座部仏教 、大乗仏教 の3つすべてが根付いていたが、15世紀に北部(黎朝 の大越 国)からの侵略があり中国の仏教が支配的となった。しかしながら、上座部仏教 はベトナム 南部に存続した[ 152] 。このように、ベトナム の仏教は中国の仏教と類似しており、宋 王朝以降においてはある程度まで中国 の仏教の仕組みが反映されている[ 154] 。また、ベトナムの仏教 は道教 、中国の精神性、およびベトナムに以前からあった宗教と共生関係をもっている。
朝鮮半島
韓国 の海印寺 に収められている高麗八万大蔵経
三国時代 の372年 頃に朝鮮半島 に仏教が伝わった[ 155] 。6世紀 には、朝鮮半島の多くの僧が仏教を学ぶために中国 やインド に渡り、様々な宗派が興った。688年 から926年 にかけて仏教は繁栄し、社会の支配的地位を占めた[ 152] 。高麗 の時代(918年 - 1392年 )においても、禅宗 (Seon)をはじめとして仏教は大衆に浸透していた[ 156] 。しかしながら、儒教 を国教とする李氏朝鮮 の時代の15世紀において、仏教は逆境に直面し、寺院所領が没収され、寺院が閉鎖され、貴族に僧位を授けることが禁止された[ 157] 。
日本
鎌倉 の大仏
仏教は、仏典 や仏画 をもって渡来した百済 の僧によって6世紀 に日本に伝わった[ 158] [ 160] 。奈良時代 (710年 - 794年 )、聖武天皇 は全国に寺院を建設することを命じた[ 161] 。五重塔 、法隆寺 、興福寺 をはじめ、数多くの寺院が奈良 に建立された。南都六宗 として知られる諸宗派が奈良 に栄えた[ 162] 。このうち最も影響力が大きかったのは華厳宗 であった[ 161] [ 164] 。
奈良時代 後期に、空海 (774年 - 835年 )が真言宗 を、最澄 (767年 - 822年 )が天台宗 を、それぞれ開いた[ 165] 。これらの宗派の思想のうちで本覚 が重要であり、後の時代の日本の宗派に影響を与えた [ 166] 。仏教はまた神道 という宗教にも、仏教的要素が組み込まれるようになるなどの影響を与えた [ 166] 。
鎌倉時代 (1185年 - 1333年 )後期には、「鎌倉仏教 」「鎌倉新仏教 」と呼ばれる、奈良時代 の宗派に匹敵する新しい宗派が立てられた。これらの宗派には、法然 (1133年 - 1212年 )の浄土宗 、親鸞 (1173年 - 1263年 )の浄土真宗 、栄西 (1141年 - 1215年 )の臨済宗 、道元 (1200年 - 1253年 )の曹洞宗 、日蓮 (1222年 - 1282年 )の法華宗 などがある[ 167] 。
日本の仏教美術 (英語版 ) は奈良時代 (710年 - 794年 )、平安時代 (794年 - 1185年 )、鎌倉時代 (1185年 - 1333年 )の8世紀 から13世紀 の時代の制作が盛んであった。禅 などの仏教は、足利時代 (1333年 - 1573年 )、徳川時代 (1603年 - 1867年 )にも文化的影響を残した。
東南アジアの仏教
紀元前500年 頃より、インド の文化は東南アジア の国々に影響をおよぼしてきた。東南アジア の陸上および海上の交易路はインド と結び付いており、ヒンドゥー教 と仏教 の信仰の双方は、東南アジア のインド化 時代にあって、この地域に影響力を持つようになった[ 168] 。このことから、1千年以上にわたり、インド の影響は、東南アジア 諸国に一定水準の文化的統一をもたらす大きな要因であった。パーリ語 やサンスクリット語 やインドの文字は、上座部仏教 、大乗仏教 、バラモン教 、ヒンドゥー教 とともに、聖典 や、 ラーマーヤナ (梵 : Rāmāyaṇa )やマハーバーラタ (梵 : Mahābhārata )といったインド文学 を通じて直接に伝わった[ 169] 。
5世紀 から13世紀 にかけて、東南アジア には、ヒンドゥー教 とならんで仏教 と仏教美術 の振興に非常に積極的な一連の強力な国々が存在した。インド亜大陸 からの影響は海上を通じて直接やってきており、東南アジア 諸国は基本的に大乗仏教 の信仰には肯定的であった。インドシナ半島 の扶南 (現在のベトナム 南部、カンボジア 、タイ 南部)、クメール王朝 (別称アンコール王朝 。カンボジア 、タイ 、ラオス )、スコータイ王朝 (タイ )や、島嶼部のカリンガ王国 (訶陵、闍婆。インドネシア のジャワ島 )、シュリーヴィジャヤ王国 (室利仏逝。インドネシア 、マレーシア )、古マタラム王国 (インドネシア のジャワ島 )、マジャパヒト王国 (インドネシア )などの例がある。
仏教の僧の一団が5世紀 にベトナム 南部の扶南 から中国に赴き、大乗仏典を持ち帰ったことが、当時において仏教が扶南 の地に存在したしるしとなっている[ 170] 。インドシナ半島 の大半を支配していたカンボジア のクメール王朝 (802年 - 1431年 )においては、大乗仏教 とヒンドゥー教 が主要な宗教であった。クメール王国 の治世下では、ヒンドゥー教 や仏教 の多数の寺院が、カンボジア や隣国のタイ に建設された。クメール王国 で最も偉大な王のひとりであるジャヤーヴァルマン7世 (1181年 - 1219年 )は、バイヨン やアンコール・トム に大規模な大乗仏教 の寺院建造物を建設した[ 171] 。
インドネシア のジャワ島 にあるカリンガ王国 (6世紀 - 7世紀 )などのインド化 された国々には、中国 から仏典 を求めて僧が訪れた[ 172] 。もとはマレー半島 を勢力圏とし、その後スマトラ島 を中心とした海上王国となったシュリーヴィジャヤ王国 (650年 - 1377年 )は、大乗仏教 や密教 を取り入れてジャワ島 やマレー半島 その他の自国領土内に広めた[ 173] 。中国 の僧義浄 はシュリーヴィジャヤ王国 の都パレンバン について、王が宮廷で千人以上の僧の支援を行うような、仏教学の一大中心地であると記した[ 174] 。
義浄 はまた671年 までにはシュリーヴィジャヤ王国 が仏教にとって重要な地であると証言し、将来中国 から巡礼 する者があれば1年から2年間をパレンバン で過ごすことを勧めた[ 175] 。インド のヴィクラマシーラ僧院 僧院長となったアティーシャ も、チベット へ布教に赴く前にここで学んだ。シュリーヴィジャヤ王国 が拡大するにつれ仏教も繁栄し、仏教は、ヒンドゥー教 や土地固有の伝統など複数の異なる宗教とともにその土地のシンクレティズム (習合、融合)の一部として組み込まれていった。[ 176]
ジャワ島 においては、シュリーヴィジャヤ王国 と対抗する古マタラム王国 もまた、大乗仏教 を振興した。古マタラム王国 は、ボロブドゥール寺院 、カラサン寺院 、セウ寺院 、プランバナン寺院 などの巨大な寺院建築(Candi of Indonesia も参照)で知られている[ 177] 。マジャパヒト王国 (1293年 - 1527年 )においても仏教 はヒンドゥー教 とともに繁栄を続けたが、後の時代にはイスラム教 に取ってかわられた。
上座部仏教の拡大
タイ のアユタヤ王朝 期の寺院で最も有名な寺院のひとつワット・チャイワタナラーム (英語版 )
ミャンマー におけるモン族 およびピュー 族の土地により、5世紀 以降イラワジ川 とチャオプラヤ川 の流域に上座部仏教 が存在していたことが、幅広い見地から証明される[ 178] 。ミャンマー の上座部仏教 は、当初から仏教の他の宗派や他の地域と共存していた[ 178] 。仏教 がインド で衰退した後、スリランカ から来た上座部仏教 の僧がミャンマー 、タイ 、カンボジア 、ラオス への布教に取り組み、これらの地域すべてを上座部仏教 に改宗させることに成功した[ 179] 。
パガン王朝 を開いたアノーヤター 王(1044年 - 1078年 )は、スリランカ からもたらされた上座部仏教 を取り入れ、数多くの寺院を首都バガン に建設した[ 180] 。ミャンマー の他地域やモンゴル からの侵略により、この地の上座部仏教 は衰退したため、スリランカから上座部仏教 が再び導入された。モン族 のペグー王朝 (1287年 - 1552年 )の時代では、ミャンマー において上座部仏教 は最も有力な宗教であり、スリランカ の仏教と強い関係を持っていた[ 181] 。ペグー王朝 の王のうち、ダンマゼーディー (英語版 ) 王は1476年 から1479年 にかけて、スリランカ のマハーヴィハーラ 学派にならい、ミャンマーの仏教 を改革したことで特に知られている[ 182] 。上座部仏教 は、後代のタウングー王朝 (1510年 - 1572年 )では公式の宗教に残っていた。
カンボジア のクメール王朝 のジャヤーヴァルマン7世 (1181年 - 1218年 頃)の治世において上座部仏教 は、スリランカ に留学したジャヤーヴァルマン7世 の子タマリンダ(Tamalinda)などの王室の人々やスリランカ の僧によって振興された。13世紀 から14世紀 にかけて、上座部仏教 はカンボジア において有力な宗教となり、地方の僧侶は上座部仏教の者が占めるようになった[ 183] 。また、タイ のスコータイ王朝 においても、上座部仏教 はラームカムヘーン 王(1237年 /1247年 - 1298年 )の治世に国教として取り入れられた[ 184] 。上座部仏教 はアユタヤ王朝 (14世紀 - 18世紀 )の時代には、タイ の社会と一体となるまでさらに強固なものとなっていった。
現代
近代 から現代 にかけて、これまでのアジア の仏教国が西洋列強に植民地化 されたことに伴う仏教 を支援してきた伝統的政治体制の弱体化や、キリスト教 からの批判、キリスト教 との競争など、仏教 に新たな課題がもたらされた[ 185] 。近代や現代の戦争、共産主義 、資本主義 の成長、科学 、地域政治の不安定化などもまた、近代 からの現代 の仏教 に影響を与える圧力要因となっている。
南アジアおよび東南アジア
イギリス の統治下のスリランカ では、国が認可する学校をすべてキリスト教 の宣教師 たちが運営しており、仏教を激しく批判していた[ 187] 。1865年 までに、仏教徒 側がキリスト教徒 に対する反対運動を開始し、パンフレット を印刷したり、公開の場でキリスト教徒 と討論を行ったりした。1873年 に行われたパナードゥラ討論(Panadura debate)が有名で、仏教徒の僧ミゲットゥワッテー・グナーナンダ・テーラ (英語版 ) [ 189] が1万人の群衆の前でキリスト教徒 との討論に勝利した[ 190] 。この時期に、仏教モダニズム (英語版 ) という新しい形の仏教が具体化され始めた。これには、仏陀を普通の人間として、仏教を合理的で科学的な宗教であると見なす傾向が見られた[ 190] 。この新しい運動の重要人物には、仏教 に改宗したアメリカ人 のヘンリー・スティール・オルコット (1832年 - 1907年 )、アナガーリカ・ダルマパーラ (1864年 - 1933年 )がいる。彼らは仏教徒のための学校を設立し、組織設立の準備をし、新聞を発行した[ 190] 。アナガーリカ・ダルマパーラ はまた、荒廃したインド のブッダガヤ の遺跡を復元するためにマハー・ボディ協会 (英語版 ) (大菩薩協会)を設立した[ 192] 。ダルマパーラはまた、アメリカ やイギリス にまで仏教の教義を伝えに赴いた。
この協会はインド における仏教復興(History of Buddhism in India#Revival of Buddhism in India )の先駆けとなり、インド人の知識階層の一部で仏教 が受け入れられるようになった[ 193] 。これらの知識階層のなかにビームラーオ・アンベードカル (1891年 - 1956年 )がおり、インド仏教復興運動 の指導者となって身分の低いダリット (不可触民)のカースト の者を仏教 に改宗させた。
ミャンマー においては、現代の仏教 における中心人物はミンドン・ミン (英語版 ) 王(1853年 - 1878年 頃)であり、第5回の(仏典)結集 (1868年 - 1871年 :Fifth Buddhist council を参照)を主宰した。第5回結集ではパーリ語 経典の異なる版が照合され、最終版が729枚のクトドー・パゴダの三蔵石版 (英語版 ) に刻みこまれた[ 194] 。また、ヴィパッサナー運動 (英語版 ) という新しい瞑想の運動が興った。この運動はメダウィ (英語版 ) (Medawi。1728年 - 1816年 )が創始したもので、仏教の瞑想法実践を推進することに貢献した[ 195] 。1956年 、ビルマ (現在のミャンマー )首相のウー・ヌ は、第6回(仏典)結集 を主宰し、上座部仏教 の様々な国から僧が訪れ、パーリ語 経典の新版を作成した[ 196] 。近年では、2007年ミャンマー反政府デモ (サフラン革命 )において、仏教徒の僧が逮捕されている。
植民地化されなかった唯一の国であるタイ には、仏教の僧団(サンガ )の近代化と改革を推し進める2人の王がいた。ラーマ4世 (1851年 - 1868年 頃)とラーマ5世 (1868年 - 1910年 頃)で、タイの仏教 においていくつかの重要な近代的改革を行った[ 197] 。タイの仏教会の再生に向けた現代の動きとしてはタイ森林派 (英語版 ) (Thai forest tradition)およびワット・プラ・ダマカヤ (英語版 ) がある。
1893年 以降、ベトナム 、カンボジア およびラオス はフランス の植民地であった。ラオス では1975年 に社会主義者 が政権を掌握した。広く仏教の僧団に抑圧が行われているということはなかったが、社会主義政権は僧団を管理する機会を窺っていた[ 198] 。しかしながら、カンボジア では1975年 から1979年 までの期間に発生したクメール・ルージュ (ポル・ポト派)によるテロによって、仏教の僧団に大きな被害が出た[ 198] [ 199] 。
東アジア
日本 では、1853年 のマシュー・ペリー による黒船来航 や1868年 の明治維新 により、封建時代に終止符が打たれ、急速な近代化が始まった[ 200] 。新しい形の国家神道 が興って日本政府に取り入れられ、仏教 と競合した。1872年 、日本政府は仏教の僧は結婚が可能であると法令で定めた[ 201] 。これらの変化は、出版社を設立したり、西洋 の哲学 や研究 手法を学ぶなどの、 日本の仏教 の近代化への努力につながっていった[ 200] 。戦後に興った新興宗教 には、仏教 の影響を受けたものも多かった。
一方で中国の仏教 は、キリスト教 的な啓示を受けた太平天国の乱 (1850年 - 1864年 )によって多大な破壊の被害を被ったが、中華民国 (1912年 - 1949年 )の時代には適度な回復をみた[ 202] 。現代主義的な人間佛教 (英語版 ) [ 203] との関連では、太虚 (たいきょ。1899年 - 1947年 )が重要な人物である。文化大革命 (1966年 - 1976年 )により、寺院は全て閉鎖され、仏教の制度が広範囲にわたり破壊された。しかしながら、1977年 以降は、政府の政策に全体的な変化があり、出家や在家を問わず、仏教の活動はもう一度再開されている [ 204] 。
朝鮮半島 の仏教は、文禄・慶長の役 、日韓併合 、朝鮮戦争 の時代に後退した。朝鮮民主主義人民共和国 においては、政府が僧団に限定的であるものの支援を提供しているが、僧団の全ての活動を政府が詳細に管理している。大韓民国 においては、仏教は復活をとげ、若い世代にも影響力をもち、政府の援助で寺院が再建されている[ 205] [ 206] 。大韓民国 で現代的な形をとる仏教の例としては、円仏教 が挙げられる。
中央アジア
2016年 に、アメリカ 大統領 バラク・オバマ と会談するダライ・ラマ14世
チベット はダライ・ラマ を指導者とする神政政治 (ガンデンポタン )の国として残っていたが、1950年 のチャムドの戦い において中国 から攻撃を受けた。1959年 、ダライ・ラマ14世 はチベット を離れた[ 207] [ 208] 。離散したチベット人 はインド 、 ヒマーチャル・プラデーシュ州 のダラムサラ の中心部にコミュティー(町)を建設し、今日では多くの仏教寺院が存在する。ダライ・ラマ14世 は、今日では、世界でも最も有名な仏教の指導者のひとりとなっている。
文化大革命 期に紅衛兵 が活動した時代(1966年 - 1967年 )には、中国共産党 により、チベット 仏教文化を消滅させるとの意図のもと、チベット の6千の寺院、美術品、経典が破壊された[ 207] 。1980年 以降、中国によるチベット仏教 の抑圧は弱まり、チベット大蔵経 が再度復刻されたり、美術品が復元されたりするなど、状況は改善してきている[ 207] 。近隣のブータン やネパール においては、チベット仏教 は引き続き主要な宗教となっている。
チベット仏教 が主要な宗教であるモンゴル では、ソビエト連邦 の支配的影響下において(1924年 - 1990年 )、仏教は強い抑圧を受けた。しかしながら、仏教 は共産主義 時代からの復活をとげ、僧侶および尼僧の数が共産主義時代より増加し、2009年 以降は寺院の数は284となっている[ 209] 。最近では宗教への政治の姿勢がより自由主義的になったため、ロシア連邦 のトゥヴァ共和国 やブリヤート共和国 、中国 の内モンゴル自治区 においても状況は好転してきている[ 209] 。
その他に、近代では17世紀 にチベット仏教 を主な宗教とするカルムイク人 のカルムイク・ハン国が建設されたという進展があった。18世紀 においては、ロシア帝国 に吸収され、現在もロシア連邦 の一部となっている[ 210] [ 211] 。
西洋
カリフォルニア州 ロサンゼルス郡 にある西来寺 (カリフォルニア州) (英語版 ) の本堂。1988年 に建立され、西半球 最大規模の寺院となっている。 ドイツ のベルリン にある上座部仏教 の寺院、仏教の家 (英語版 ) (Das Buddhistische Haus)。ヨーロッパ における上座部仏教 で最古の仏教 寺院と考えられている[ 212]
19世紀 にかけて、西洋 の知識人たちは、植民地 の使用人や行政官、キリスト教の宣教師など仏教 との様々な接触機会を通じて、仏教 をより意識するようになっていった。イギリス のエドウィン・アーノルド による本1冊分の文章量をもつ詩「アジアの光 」(1879年 )は、最も成功した初期の仏教に関する出版物で、英語を話す中流階級の関心を引いた[ 213] 。ヘルマン・オルデンベルク (1854年 - 1920年 )、トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ (1843年 - 1922年 )、フリードリヒ・マックス・ミュラー などの西洋の仏教学者 の研究も、仏教を西洋の人々に紹介するうえで影響を与えた[ 214] 。
また、19世紀 後半には、神智学 のヘンリー・スティール・オルコット とヘレナ・P・ブラヴァツキー が1880年 に仏教 に改宗 するなど、近代的な西洋人による仏教への改宗が初めて見られるようになった。神智学協会 はインド の宗教を西洋 に普及させるのに影響力があった[ 215] 。また、ダンマローカ (英語版 ) (U Dhammaloka)、チャールズ・ヘンリー・アラン・ベネット (英語版 ) (Ananda Metteyya)、ドイツ人 のニャーナティローカ (英語版 ) (Nyānatiloka Thera。1878年 - 1956年 )など、19世紀 には最初の西洋 人の仏教 の僧侶 が現れた。
西洋に仏教が拡大した要因としては、中国人 や日本人 が、19世紀 後半にアメリカ やカナダ に大規模な移民をしたことも重要であった[ 216] 。また、1975年 以降には、ベトナム 、ラオス 、カンボジア からの難民 も西洋の国々に入国した[ 217] 。20世紀 の西洋においては、鈴木大拙 、釈宣化 、安谷白雲 、ティク・ナット・ハン などアジア の僧侶が禅 を教えるうえで影響力がある。鈴木俊隆 (すずき しゅんりゅう)は、サンフランシスコ に曹洞宗 のサンフランシスコ禅センター (1961年 )とタサハラ禅マウンテンセンター (英語版 ) (1967年 )を開いた[ 218] 。
また、チベット人 のディアスポラ (民族離散による海外移住者)は、チベット仏教 の西洋 における普及を活発に進めている。主要な4つの宗派全てが[ 219] 西洋 世界に存在し、改宗者を呼び込んできた[ 220] 。ダライ・ラマ14世 (Lama Thubten Zopa)、タルタン・トゥルク (英語版 ) 、チョギャム・トゥルンパ などの指導者がいる[ 221] 。信者の数は1千万人から2千万人と推定されている[ 222] 。
上座部仏教は、アメリカの移民社会をはじめ、西洋に様々な寺院を設立してきた。ヴィパッサナー瞑想 は、1975年にアメリカで設立されたインサイト・メディテーション・ソサエティ(Insight Meditation Society)などを通じて、西洋で成立した[ 223] [ 224] 。タイ森林派 (英語版 ) もまた、アメリカやイギリスに共同体 を作っている[ 225] 。
ヨーロッパの仏教 においても、20世紀 後半にかけて関心が高まっており、ドイツ語 圏をはじめとして仏教の団体数は大幅に増加している[ 226] 。フランス とスペイン において支持者数が最も多いのはチベット仏教 である[ 227] 。オーストラリア やニュージーランド においても、チベット仏教 、東アジアの仏教、上座部仏教 が存在し、活動している[ 228] 。アルゼンチン 、ブラジル 、チリ 、コロンビア 、ベネズエラ においてはチベット仏教 および禅宗 が少数ながら存在している[ 229] 。
20世紀 における西洋への仏教の拡がりによって、仏教は世界的な現象へと変化しつつある。
出典
^ a b Harvey, 2012, p. 14.
^ 当時のバラモン教 社会におけるヴァルナ 制度の最上位に位置する僧侶の階級。
^ 当時のバラモン教 社会におけるヴァルナ 制度において、僧侶であるバラモン に次ぐ第2位に位置する王族や武人の階級。
^ Harvey, 2012, pp. 14–15.
^ 尼僧が僧団に参加することを認めた。具体的には仏陀の養母の摩訶波闍波提 (マハープラジャーパティー王妃、梵 : Mahā-prajāpatī )および500人の釈迦族 の女性が、男性の僧である比丘 (びく、梵 : Bhikkhu )よりも厳しい規律を課すことを条件に出家を認められた。
^ a b Harvey, 2012, p. 24.
^ Harvey, 2012, p. 25.
^ 十六大国 のひとつコーサラ国 の首都。
^ 十六大国 のひとつマガダ国 の首都。
^ 十六大国 のひとつヴァッジ国 の首都。
^ Beyond Enlightenment: Buddhism, Religion, Modernity by Richard Cohen. Routledge 1999. ISBN 0415544440 . p. 33. 「(仏教 の僧伽 に)寄附を行った者は、シャカムニ・ブッダの姓を名乗ることで、制度的にも観念的にも、ブッダを正当に継ぐ者だと言おうとした。シャカの名を名乗ることは、名乗った者自身がブッダと関係していると自己定義することであり、現代の仏教の信仰者が自分自身を「仏教徒」と呼ぶことと似ている面がある。」
^ Sakya or Buddhist Origins by Caroline Rhys Davids (London: Kegan Paul, Trench, Trubner, 1931) p. 1. 「仏教」という言葉を脇において「シャカ」について考えることで、いっぺんに正しい見通しを得ることができる。そうすることで、「ブッダ」や「仏教」についての関心は薄められ、インドでシャカムニ(釈迦族の聖者)と知られたその人、そして、記録にとどまる範囲内ではあるが、シャカの息子たち、あるいは「シャキヤン」と呼ばれた釈迦の弟子たちについてより多くを学ぼうとすることができる。」
^ Curators of the Buddha By Donald S. Lopez. University of Chicago Press. p. 7
^ Beyond Enlightenment: Buddhism, Religion, Modernity by Richard Cohen. Routledge 1999. ISBN 0415544440 . p. 33. 「「バウッダ」は、「ブッダ」の母音を伸ばすことで元の言葉との関係性の存在を示す、二次派生語である。「バウッダ」と「ブッダ」の関係は、「サイヴァ」と「シヴァ 」(ヒンドゥー教 の破壊、再生の神)、「ヴァイシュナヴァ」と「ヴィシュヌ」(ヒンドゥー教 の破壊的な力からの守護を司る神)との関係と同じである。…「バウッダ」は形容詞的にも名詞的にも用いられる。ブッダの話した教義やブッダの享受したもの、ブッダに関する文献のことを表すだけでなく、ブッダに崇敬をよせブッダの名によって保証された価値観念を受け入れた人々や団体や社会のことをも表す。厳密に言うと、「バウッダ」の言葉はアジャンター の遺跡に記されていないことから、「バウッダ」より「シャキヤ」(Sakya)の方が好ましい。実のところ、集合名詞としては、「バウッダ」は外部の者が仏教徒を指して呼んだ言葉である。インドにおいては仏教徒は自分たちのことを「バウッダ」とは呼ばなかった。時には「仏陀の」というように、所有格の意味で形容詞的に用いた場合があったとしても。」
^ Berkwitz, Stephen C. South Asian Buddhism: A Survey, Routledge, 2012, p. 43.
^ Prebish, Charles S. Buddhism:上座部 と大衆部 の最初の僧伽 の分裂を一人の人間が引き起こしたとも言われている。分裂の原因は律 (僧団の規律)をめぐる論争であることには同意している。
^ Harvey, Peter (2013). An Introduction to Buddhism: Teachings, History, and Practices (2nd ed.). Cambridge, UK: Cambridge University Press. pp. 88–90.
^ a b Harvey, 2012, p. 98.
^ a b Harvey, 2012, p. 90.
^ 仏教初期に成立したパーリ語 仏典 で、阿含経 の一部。
^ マウリヤ朝 のアショーカ王 以来の仏教遺跡 で世界遺産 に指定。釈迦 の遺骨(仏舎利 )を安置するストゥーパ (卒塔婆 )がある。現在のインド 中央部、マディヤ・プラデーシュ州 。
^ 十六大国 のひとつマッラ国 の西部にある都市。仏陀 入滅 の地。現在のインド 、ウッタル・プラデーシュ州 クシナガラ県。
^ 有力者の集会によって統治される国。
^ 阿含経 の増一阿含経 に相当。
^ Asiatic Mythology by J. Hackin pp. 83ff
^ a b Harvey, 2012, p. 100.
^ Harvey, 2012, p. 101.
^ a b Harvey, 2012, p. 102.
^ a b c Harvey, 2012, p. 103.
^ Berkwitz, Stephen C. South Asian Buddhism: A Survey, Routledge, 2012, p. 45。王が疑わしい者に教義について質問をし、回答をモガリプッタ・ティッサが確認していた(英語版Buddhist councils 参照。)
^ 古代ギリシア の地域名イオニア に由来。
^ History of Afghanistan
^ According to the linguist Zacharias P. Thundy
^ "Zen living", w:Robert Linssen
^ "The Original Jesus" (Element Books, Shaftesbury, 1995), Elmar R Gruber, Holger Kersten
^ キュレネのヘゲシアス (ペイシタナトス、「死に導く者」(The advocate of death)とも呼ばれる。)は、キュレネのマガス (英語版 ) と同時代の人で、(アショーカ王 の時代に)キュレネ (現在のリビア )やアレクサンドリア (現在のエジプト 。)に派遣された仏教徒の使者から影響を受けた可能性がある。彼の影響は、 (死を最大の幸福と捉えた消極的快楽主義を唱え、聴講したものから自殺者が続出したため) 最後は講義を禁止されたほどであった。" Jean-Marie Lafont, w:Inalco in "Les Dossiers d'Archéologie", No. 254, p. 78
^ Adrian Kuzminski, Pyrrhonism: How the Ancient Greeks Reinvented Buddhism (Studies in Comparative Philosophy and Religion) 2008
^ Tarn, The Greeks in Bactria and India
^ w:Robert Linssen , Zen living
^ 現在のアフガニスタン 、タジキスタン 、ウズベキスタン 地方。
^ インドの哲学者 や修行者 で、裸行や菜食主義 を行っていた。
^ Clement of Alexandria "The Stromata, or Miscellanies"(日本語名ストロマテイス ) Book I, Chapter XV: “Clement of Alexandria: Stromata, Book 1 ”. 2010年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2010年8月11日 閲覧。
^ “National Engineering Technological Heritage Gallery ceremonially opened ”. The Sunday Times. 12 November 2013時点のオリジナルよりアーカイブ 。30 September 2014 閲覧。
^ この木は世界最古の木と見なされている。ブッダガヤ の菩提樹 は、5世紀 のインド の仏教弾圧により切られている。
^ Crosby, Kate (2013), Theravada Buddhism: Continuity, Diversity, and Identity , Wiley-Blackwell, pp. 1–3, ISBN 978-1405189071
^ Bandaranayake, S.D. Sinhalese Monastic Architecture: The Viháras of Anurádhapura, p. 22
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 280
^ Gombrich, Theravada Buddhism, a social history from Ancient Benares to Modern Colombo, Routledge; 2 edition (July 26, 2006), p. 152
^ Bhikkhu Bodhi, In the Buddha's words, p. 13
^ パラークラマ・バーフ1世の主導でサンガ の改革の会議が開かれ、堕落したとみなされた(主要3派のうちアヌラーダプラ大僧院以外の、アバヤギリヴィハーラおよびジェータヴァナに属する)僧侶は島外に渡ったり僧衣を脱いで日常生活に戻ったりした。詳細は英語版w: Parakramabahu I 参照。
^ Hirakawa, Akira; Groner, Paul (1993). A History of Indian Buddhism: From Śākyamuni to Early Mahāyāna . Motilal Banarsidass. p. 126. ISBN 978-81-208-0955-0 .
^ Harvey, 2012, pp. 108, 110
^ Neelis, Jason. Early Buddhist Transmission and Trade Networks. 2010. p. 141
^ Harvey, 2012, p. 108.
^ Snellgrove, David L. Indo-Tibetan Buddhism: Indian Buddhists and Their Tibetan Successors, 2004, p. 56.
^ Snellgrove, David L. Indo-Tibetan Buddhism: Indian Buddhists and Their Tibetan Successors, 2004, p. 58.
^ Harvey, 2012, p. 109.
^ Williams, Paul. Buddhist Thought. Routledge, 2000, p. 131.
^ Williams, Paul. Mahayana Buddhism: The Doctrinal Foundations 2nd edition. Routledge, 2009, p. 47.
^ Guang Xing. The Concept of the Buddha: Its Evolution from Early Buddhism to the Trikaya Theory. 2004. pp. 65–66 "般若経はおそらく大衆部において、南インドのアーンドラ国 のクリシュナ川に沿った場所で発展した主張してきた学者もいる。"
^ Akira, Hirakawa (translated and edited by Paul Groner) (1993). A History of Indian Buddhism . Delhi: Motilal Banarsidass: pp. 253, 263, 268
^ "The south (of India) was then vigorously creative in producing Mahayana Sutras" – Warder, A.K. (3rd edn. 1999). Indian Buddhism : p. 335.
^ Guang Xing. The Concept of the Buddha: Its Evolution from Early Buddhism to the Trikaya Theory. 2004. pp. 65–66
^ Akira, Hirakawa (translated and edited by Paul Groner) (1993. A History of Indian Buddhism . Delhi: Motilal Banarsidass: pp. 252, 253
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 313
^ Padma, Sree. Barber, Anthony W. Buddhism in the Krishna River Valley of Andhra. SUNY Press 2008, p. 2.
^ Buddhist Landscapes in Central India: Sanchi Hill and Archaeologies of Religious and Social Change, C. Third Century BC to Fifth Century AD , Julia Shaw, Left Coast Press, 2013 pp. 88ff
^ Divyāvadāna , pp. 429–434
^ Indian Historical Quarterly Vol. XXII, pp. 81 ff cited in Hars.407
^ “Elst, Koneraad Ashoka and Pushyamitra, iconoclasts? ”. 2017年4月1日時点のオリジナル よりアーカイブ。2015年1月12日 閲覧。
^ Ashoka and the Decline of the Mauryas by Romila Thapar, Oxford University Press, 1960 p. 200
^ "Gandhara", Francine Tissot, p. 128: "ガンジス川 流域から追放された僧侶たちは、部派によって違いはあろうが、北の道(Uttarapathaもしくは Daksinapatha)を通って移動した。北の道は、ある者にとってはインドの北西部であり、またある者にとっては茫洋とした西洋であり、様々な美術作品がそれぞれの道に残されていた。
^ Narain, "The Indo-Greeks" 2003, p. 124
^ Plutarch , Praec. reip. ger. 28, 6
^ ガンダーラ語 を記すための文字で、サンスクリット語 と比較して俗語にあたるプラークリット語 でガンダーラ 語を記している。最古の仏教文献がこの文字で書かれた可能性がある。
^ Foreign Impact on Indian Life and Culture (c. 326 B.C. to C. 300 A.D.) Satyendra Nath Naskar, Abhinav Publications, 1996, p. 69 [11]
^ Marshall, "The Buddhist art of Gandhara", p. 101
^ Standing Buddhas: Image 1 Archived 2013-06-16 at the Wayback Machine ., Image 2 Archived 2006-10-21 at the Wayback Machine .
^ ギリシア の古典彫刻 の傑作の一つとも言われる。
^ The Belvedere Apollo: Image Archived 2014-06-03 at the Wayback Machine .
^ Full text of the Mahavamsa Click chapter XXIX Archived 2006-09-05 at the Wayback Machine .
^ Xinru Liu, The Silk Road in World History (New York: Oxford University Press, 2010), 42.
^ Kurt A. Behrendt, The Buddhist architecture of Gandhara, Handbuch der Orientalistik Brill, 2004, p. 13
^ Kurt Behrendt, Pia Brancaccio, Gandharan Buddhism: Archaeology, Art, and Texts, 2006 p. 10
^ "UW Press: Ancient Buddhist Scrolls from Gandhara" Archived 2013-04-08 at WebCite . Retrieved 2008-09-04.
^ Richard Salomon. Ancient Buddhist Scrolls from Gandhāra: The British Library Kharosthī Fragments, with contributions by Raymond Allchin and Mark Barnard. Seattle: University of Washington Press; London: The British Library, 1999. p. 181
^ a b c Heirman, Ann; Bumbacher, Stephan Peter (editors). The Spread of Buddhism, Brill, p. 57
^ Prebish, Charles S. Buddhism: A Modern Perspective, p. 47.
^ Prebish, Charles S. Buddhism: A Modern Perspective, p. 42.
^ Indo-Tibetan Buddhism. Snellgrove, David. Shambhala. Boston: 2003. p. 46
^ Teaching of Vimalakirti , Pali Text Society, p. 93
^ パーリ語 を含むインド・アーリア語の総称。
^ Buddhism in Central Asia by Baij Nath Puri , Motilal Banarsi Dass Publishers, p. 130
^ van Bladel, Kevin (2011). "The Bactrian Background of the Barmakids". In Anna Akasoy and Charles Burnett and Ronit Yoeli-Tlalim. Islam and Tibet Interactions along the Musk Routes . Farnham, UK: Ashgate. pp. 43–88. ISBN 978-0754669562
^ Kurt A. Behrendt, The Buddhist architecture of Gandhara, Handbuch der Orientalistik Brill, 2004, p. 10
^ Behrent, Kurt. Gandhara, metmuseum.org Archived 2018-04-03 at the Wayback Machine .
^ a b Harvey, 2012, p. 195.
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 278
^ "Khotan – Britannica Online Encyclopedia" . Britannica.com.
^ Silk, Jonathan, The spread of Buddhism in Central Asia. International Institute for Asian Studies, Newsletter No 68, 2014 “Archived copy ”. 2018年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2018年4月5日 閲覧。
^ a b c d e f g h i Kudara, Kogi (2002). “A Rough Sketch of Central Asian Buddhism” . Pacific World: Journal of the Institute of Buddhist Studies 3 (4): 93–107. オリジナル の2018-04-06時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180406102117/http://www.shin-ibs.edu/publications/pacific-world/third-series-number-4-fall-2002/ 2018年4月5日 閲覧。 .
^ 「セリンディア」は、陸路をたどったアジア の東の果てをさすセリカ(Serika)とインド(India)の合成語。
^ 1840年にイギリス人 ジェームズ・プリンセプ によるカローシュティー文字 の解読が、インド のアショーカ王 の磨崖碑文の解読につながった。
^ 言語 、論理 、医学 、美術 、精神 性の5つの全てに通じたインド の僧を称する言葉。
^ Alexis Sanderson (2009). “The Śaiva Age: The Rise and Dominance of Śaivism during the Early Medieval Period”. In Einoo, Shingo. Genesis and Development of Tantrism . Tokyo: Institute of Oriental Culture, University of Tokyo. pp. 89
^ The Gupta Empire by Radhakumud Mookerji p. 133 sq
^ 論理的な判断規範は、直接経験である現量 と推論である比量 のみであり、仏陀 によって説かれた言葉であること(聖教量 )という規範を排した二量説 などを唱えた。
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 442.
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 442
^ ギリシャ的要素が排され、インド風の繊細な表現となった。バーミヤン や雲崗 にグプタ様式が見られる。
^ Personality of Xuanzang Sanzang
^ Buddhism in Andhra Pradesh, story of Buddhism : “Buddhism in Andhra Pradesh, story of Buddhism ”. 2007年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2006年6月27日 閲覧。
^ Vajrayogini: Her Visualization, Rituals, and Forms by Elizabeth English. Wisdom Publications. ISBN 0-86171-329-X p. 15
^ Warder, A.K. Indian Buddhism . 2000. p. 443.
^ 密教の宝具。金剛杵 (vajra)の半分が三日月型のナイフ の形になっている。皮はぎを行う、または輪廻 から存在を引き出す、無知 を破壊すると考えられている。
^ 密教の儀式で用いられる髑髏杯。チベット仏教では髑髏に彫刻や装飾が施される。智慧と知識の象徴であり、弟子への知識の伝達を表す。
^ 音韻とその操作のための技術を含む。
^ Ray, Reginald A.; Indestructible Truth: The Living Spirituality of Tibetan Buddhism, 2000
^ 我執を超越した到達者の境地が表現されたタントラ。
^ Sanderson, Alexis. "The Śaiva Age: The Rise and Dominance of Śaivism during the Early Medieval Period." In: Genesis and Development of Tantrism, edited by Shingo Einoo. Tokyo: Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, 2009. Institute of Oriental Culture Special Series, 23, p. 124.
^ Sanderson, Alexis; Vajrayana:, Origin and Function, 1994
^ チベット仏教 のニンマ派 による9分類の方法論の1つに挙げられる。英語版w:Yana (Buddhism)#Enumeration of yānas in Mahayana texts 参照。
^ 6世紀 に書かれ、現存する最古のインド仏教のタントラと言われている。梵 : Mañjuśrī は文殊菩薩 を示す。
^ Sanderson, Alexis. "The Śaiva Age: The Rise and Dominance of Śaivism during the Early Medieval Period." In: Genesis and Development of Tantrism, edited by Shingo Einoo. Tokyo: Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, 2009. Institute of Oriental Culture Special Series, 23, pp. 129–131.
^ Sanderson, Alexis. "The Śaiva Age: The Rise and Dominance of Śaivism during the Early Medieval Period." In: Genesis and Development of Tantrism, edited by Shingo Einoo. Tokyo: Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, 2009. Institute of Oriental Culture Special Series, 23, pp. 144–145.
^ Huber, Toni (2008). The holy land reborn : pilgrimage & the Tibetan Reinvention of Buddhist India . Chicago: University of Chicago Press. pp. 94–95. ISBN 978-0-226-35648-8
^ Conze, Edward (1993). A Short History of Buddhism (2nd ed.). Oneworld. ISBN 978-1-85168-066-5
^ Conze, 1993, 106
^ Berzin, Alexander (2000). How Did Tibetan Buddhism Develop? : “How Did Tibetan Buddhism Develop? ”. 2016年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2016年6月4日 閲覧。 ; Berzin, Alexander (1996). The Spread of Buddhism in Asia : “Spread of Buddhism in Asia ”. 2016年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2016年6月4日 閲覧。
^ Berzin, Alexander, as above
^ Berzin, Alexander. Study Buddhism : “Study Buddhism – an extensive source of Buddhist teachings ”. 2016年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2016年5月28日 閲覧。
^ ティソン・デツェン 王の勅命で787年 に摩訶衍 禅師が敦煌 より招聘され、792年 にチベットにおける仏教の布教が許可された。8世紀 末にサムイェー寺 においてインド仏教 と中国仏教 の宗論が戦わされ、カマラシーラ が率いるインド仏教が勝利を収めた(サムイェー寺の宗論 )。797年 に摩訶衍 禅師は敦煌 に放逐され、以後チベット においてはインド仏教 が正統と認定された。
^ Harvey, 2012, p. 210
^ “Buddhism in China: A Historical Overview ”. Saylor.org. 27 July 2014時点のオリジナルよりアーカイブ 。7 March 2012 閲覧。
^ Zürcher, Erik. 2007 (1959). The Buddhist Conquest of China: The Spread and Adaptation of Buddhism in Early Medieval China. 3rd ed. Leiden: Brill. pp. 32–34
^ Williams, Paul. Mahāyāna Buddhism: The Doctrinal Foundations. 2008. p. 30
^ Oh, Kang-nam (2000). The Taoist Influence on Hua-yen Buddhism: A Case of the Sinicization of Buddhism in China . Chung-Hwa Buddhist Journal, No. 13, (2000). Source: [1] (accessed: January 28, 2008) p. 286 Archived March 23, 2010, at the Wayback Machine .
^ Nattier, Jan. The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text? Archived 2016-02-11 at Wikiwix . Journal of the International Association of Buddhist Studies Vol. 15 (2), 153–223 (1992).
^ Crossroads of Asia , p. 209
^ Harvey, 2012, pp. 215–217.
^ Jerry Bentley, "Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times " (New York: Oxford University Press, 1993), 81.
^ Orzech, Charles D. (general editor) (2011). Esoteric Buddhism and the Tantras in East Asia. Brill. p. 4
^ McRae, John (2003), Seeing Through Zen, The University Press Group Ltd, pp. 13, 18
^ McRae, John (2003), Seeing Through Zen, The University Press Group Ltd, pp. 13, 19–21
^ Heng-Ching Shih (1987). Yung-Ming's Syncretism of Pure Land and Chan, The Journal of the International Association of Buddhist Studies 10 (1), p. 117
^ Harvey, 2012, p. 223
^ Nan Huai-Chin. Basic Buddhism: Exploring Buddhism and Zen. York Beach: Samuel Weiser. 1997. p. 99.
^ Stanley Weinstein, "The Schools of Chinese Buddhism," in Kitagawa & Cummings (eds.), Buddhism and Asian History (New York: Macmillan 1987) pp. 257–265, 264.
^ a b c d Harvey, 2012, p. 224.
^ Nguyen Tai Thu. The History of Buddhism in Vietnam . 2008.
^ Prebish, Charles. Tanaka, Kenneth. The Faces of Buddhism in America. 1998. p. 134
^ “300 to 600 CE: Korea | Asia for Educators | Columbia University ”. Afe.easia.columbia.edu. 2012年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2012年3月6日 閲覧。
^ Vermeersch, Sem. (2008). The Power of the Buddhas: the Politics of Buddhism during the Koryŏ Dynasty (918–1392), p. 3.
^ Harvey, 2012, p. 225.
^ Dykstra, Yoshiko Kurata; De Bary, William Theodore (2001). Sources of Japanese tradition . New York: Columbia University Press. p. 100. ISBN 0-231-12138-5 .
^ 577年 、百済の威徳王が、経論、律師、禅師、比丘尼、呪術師、造仏工、造寺工を贈ったとの記述もある。
^ a b Harvey, 2012, p. 226.
^ Powers, John (2000). "Japanese Buddhism". A Concise Encyclopedia of Buddhism . 1 . Oxford: Oneworld Publications. pp. 103–107.
^ 南都六宗 のうちでは、法相宗 と三論宗 が有力であったとする記述もある。
^ Harvey, 2012, p. 227.
^ a b Harvey, 2012, p. 228.
^ Dobbins, James C. (1998). "Envisioning Kamakura Buddhism". In Payne, Richard K. Re-visioning Kamakura Buddhism Archived 2017-12-30 at the Wayback Machine .. Honolulu: University of Hawai'i Press. ISBN 0824820789 .
^ Kenneth R. Hal (1985). Maritime Trade and State Development in Early Southeast Asia . University of Hawaii Press. p. 63. ISBN 978-0-8248-0843-3 .
^ "Hinduism in Southeast Asia" Archived 2016-12-21 at the Wayback Machine .. Oxford Press. 28 May 2013. Retrieved April 4, 2018.
^ T'oung Pao: International Journal of Chinese Studies. 1958. p. 185
^ Higham, C. (2014). Early Mainland Southeast Asia . Bangkok: River Books Co., Ltd., ISBN 978-6167339443 .
^ Drs. R. Soekmono, (1988) [First published in 1973]. Pengantar Sejarah Kebudayaan Indonesia 2, 2nd ed . Yogyakarta: Penerbit Kanisius. p. 37.
^ Jerry Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchange in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 72.
^ W., T. (1897). "Review of A Record of the Buddhist Religion, as Practised in India and the Malay Archipelago (A.D. 671–695), I-Tsing" Archived 2018-05-11 at the Wayback Machine .. Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland : 358–364.
^ Jerry Bently, 'Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 72.
^ Jerry Bently, 'Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 73.
^ Munoz, Paul Michel (2006). Early Kingdoms of the Indonesian Archipelago and the Malay Peninsula . Singapore: Editions Didier Millet. ISBN 981-4155-67-5 .
^ a b Skilling, Peter, The Advent of Theravada Buddhism to Mainland South-east Asia https://journals.ub.uni-heidelberg.de/index.php/jiabs/article/viewFile/8854/2761
^ Gombrich, Richard Francis. Theravāda Buddhism: A Social History . 1988. p. 3
^ Lieberman, Victor B (2003). Strange Parallels: Southeast Asia in Global Context, C. 800–1830, Volume 1: Integration on the Mainland . Cambridge University Press. pp. 115–116. ISBN 978-0-521-80496-7 .
^ Myint-U, Thant (2006). The River of Lost Footsteps – Histories of Burma. Farrar, Straus and Giroux. ISBN 978-0-374-16342-6 . pp. 64–65
^ Taw, Sein Ko (1892). The Kalyani Inscriptions Erected by King Dhammaceti at Pegu: Text and Translation (PDF) Archived 2012-10-22 at the Wayback Machine .. Rangoon: The Superitendant, Government Printing, Burma. iv–v
^ Gyallay-Pap, Peter. "Notes of the Rebirth of Khmer Buddhism," Radical Conservativism.
^ Cœdès, George (1968). Walter F. Vella, ed. The Indianized States of Southeast Asia . trans. Susan Brown Cowing. University of Hawaii Press. ISBN 978-0-8248-0368-1 .
^ Harvey, 2012, p. 376
^ Bhagwat, Ramu (19 December 2001). “Ambedkar memorial set up at Deekshabhoomi” . Times of India . http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2001-12-19/mumbai/27228796_1_dr-ambedkar-narayanan-smarak-samiti 1 July 2013 閲覧。
^ Harvey, 2012, p. 377
^ テーラ(Thera)は「長老」の意。
^ a b c Harvey, 2012, p. 378.
^ Harvey, 2012, p. 379.
^ Harvey, 2012, p. 398.
^ Harvey, 2012, p. 394.
^ Pranke, Patrick. On saints and wizards, Ideals of human perfection and power in contemporary Burmese Buddhism
^ Harvey, 2012, p. 395.
^ Harvey, 2012, p. 385.
^ a b Harvey, 2012, p. 397.
^ 1993年 に立憲君主制に移行してからは、国王を選挙する9人の王室評議会のメンバーのうち2人が上座部仏教 から出される体制となっている。
^ a b Harvey, 2012, p. 403.
^ 明治5年4月25日太政官布告133号。
^ Harvey, 2012, p. 409.
^ 従来の仏教にある神格化の側面を否定し、「人間」(霊)と「生命」(礼拝や儀式)の側面に重点を置いた仏教の考え方。
^ Harvey, 2012, p. 409–410
^ Harvey, 2012, p. 412
^ Clark, Donald N. (2000). Culture and customs of Korea . Greenwood Publishing Group. ISBN 978-0-313-30456-9 .
^ a b c Harvey, 2012, p. 414.
^ インド に亡命政府を樹立した。
^ a b Harvey, 2012, p. 417.
^ NUPI – Centre for Russian Studies
^ 現在は、ロシア連邦 のカルムイク共和国 となっている。宗教の融和策をとるキルサン・イリュムジーノフ 大統領の時代(1993年 - 2010年 )に仏教の復興が見られ、2004年 にはダライ・ラマ14世 がカルムイク共和国 を訪問した。
^ "80th anniversary of Das Buddhistische Haus in Berlin – Frohnau, Germany". Daily News (Sri Lanka). April 24, 2004.
^ Harvey, 2012, 420.
^ Harvey, 2012, 422.
^ Harvey, 2012, 421.
^ Harvey, 2012, 424.
^ Harvey, 2012, 426.
^ Harvey, 2012, 432.
^ ニンマ派 、カギュ派 、サキャ派 、ゲルク派 の4派のこと。
^ Harvey, 2012, 437.
^ Harvey, 2012, 437–438
^ Adherents.com estimates twenty million for "Lamaism (Vajrayana/Tibetan/Tantric)." http://www.adherents.com/adh_branches.html#Buddhism Archived 2017-08-03 at the Wayback Machine .
^ Fronsdal, Gil (1998). "Insight Meditation in the United States: Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness," Archived 2014-03-27 at the Wayback Machine . in C.S. Prebish & K.K. Tanaka (1998), The Faces of Buddhism in America , University of California Press.
^ ミャンマーのレディ・サヤドー の瞑想法が、ミャンマー人ウ・バ・キン によってインドに伝えられ、1976年にヴィパッサナー国際瞑想アカデミーが設立されたとの記述もある(ヴィパッサナー瞑想 )
^ Harvey, 2012, p. 449.
^ Harvey, 2012, p. 451.
^ Harvey, 2012, pp. 454, 456
^ Harvey, 2012, p. 456
^ Harvey, 2012, p. 457.
参考文献
Beal, Samuel (1884). Si-Yu-Ki: Buddhist Records of the Western World, by Hiuen Tsiang . 2 vols. Translated by Samuel Beal. London. 1884. Reprint: Delhi. Oriental Books Reprint Corporation. 1969. Volume 1 Volume2
Boardman, John, "The Diffusion of Classical Art in Antiquity", Princeton University Press, 1994, ISBN 0-691-03680-2
Cowell, E.B. (transl.) Ashvaghosa (author)(1894), The Buddha Carita or the Life of the Buddha , reprint, New Delhi, 1977.
Eliot, Charles, "Japanese Buddhism", Routledge 1964. ISBN 0-7103-0967-8
Eliot, Charles, "Hinduism and Buddhism: An Historical Sketch" (vol. 1–3), Routledge, London 1921, ISBN 81-215-1093-7 Internet Archive
Errington, Elizabeth, "The Crossroads of Asia. Transformation in Image and symbol in the art of ancient Afghanistan and Pakistan", en:Ancient India and Iran Trust 1992, ISBN 0-9518399-1-8
Foltz, Richard (2010). Religions of the Silk Road: Premodern Patterns of Globalization . New York, New York, USA: Palgrave Macmillan. ISBN 978-0230621251
Keown, Damien, "Dictionary of Buddhism", Oxford University Press, 2003, ISBN 0-19-860560-9
Harvey, Peter, An Introduction to Buddhism, Teachings, History and Practices, 3rd ed, Cambridge University Press, 2012
Linssen, Robert,"Living Zen", Grove Press, New York, 1958. ISBN 0-8021-3136-0
McEvilley, Thomas, "The Shape of Ancient Thought. Comparative studies in Greek and Indian Philosophies", Allworth Press, New York, 2002. ISBN 1-58115-203-5
"National Museum Arts asiatiques- Guimet" (Editions de la Reunion des Musées Nationaux, Paris, 2001) ISBN 2-7118-3897-8 .
"The Times Atlas of Archeology", Times Books Limited, London, 1991. ISBN 0-7230-0306-8
Takakusu, J., I-Tsing, A Record of the Buddhist Religion : As Practised in India and the Malay Archipelago (A.D. 671–695) , Clarendon press 1896. Reprint. New Delhi, AES, 2005, lxiv, 240 p., ISBN 81-206-1622-7 .
Tissot, Francine, "Gandhara", Librairie d'Amérique et d'Orient, Paris 1970, ISBN 2-7200-1031-6
Willemen, Charles, trans. (2009), Buddhacarita: In Praise of Buddha's Acts , Berkeley, Numata Center for Buddhist Translation and Research. ISBN 978-1886439-42-9
Ronald M. Davidson (2002). Indian Esoteric Buddhism: A Social History of the Tantric Movement . Columbia University Press. ISBN 978-8120819917
中村元 ほか編集委員 『岩波仏教辞典』(第二版 2002年・第三版 2023年)岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8 。
塚本啓祥 『アショーカ王碑文』第三文明社〈レグルス文庫〉、1976年。ISBN 978-4-476-01054-1 。
杉本良男 「四海同胞から民族主義へ : アナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯 」『国立民族学博物館調査報告』第36巻第3号、国立民族学博物館)、2012年2月27日、285-351頁、doi :10.15021/00002014 、2022年5月24日 閲覧 。
川島 耕司「植民地下スリランカにおけるミッションと反キリスト教運動 」『国立民族学博物館調査報告』第31巻、国立民族学博物館、2002年10月15日、151-183頁、doi :10.15021/00002014 、2022年5月24日 閲覧 。
関連項目