仙台中央警察署(せんだいちゅうおうけいさつしょ)は、宮城県警察が管轄する警察署の1つである。「中央署」と略して呼ばれることがある。県内有数の大規模警察署であり、署長は警視正。
管轄区域
仙台市都心部および文教地区の青葉山周辺を管轄域としている。管内の居住者人口は約4万人[1]で仙台都市圏にある宮城県の警察署としては最小の管轄人口だが、管内の昼間人口は約45万人に膨れ上がるとされ[1]、宮城県警察の中で最大の管轄昼間人口となっている。
- 仙台市青葉区
所在地
沿革
当署はかつて「仙台北警察署」と称し、定禅寺通をはさんで錦町公園の向かい側の勾当台地区(北緯38度16分1.3秒 東経140度52分26.2秒 / 北緯38.267028度 東経140.873944度 / 38.267028; 140.873944 ((旧)仙台北警察署(~1966年) → 仙台中央警察署(1966年~1970年)))に所在した。1964年(昭和39年)1月に仙台市を含む仙台湾地域が新産業都市に指定されると、治安と交通輻輳対策として当署を仙台中央警察署と(新)仙台北警察署(北緯38度16分49.6秒 東経140度52分16.9秒 / 北緯38.280444度 東経140.871361度 / 38.280444; 140.871361 ((新)仙台北警察署(1966年~)))とに分割することとし、当署を引き継ぐ中央署が仙台市都心部を、北仙台の国道4号(現県道仙台泉線)面して新設する(新)北署が仙台都市圏北部を管轄することになった。1966年(昭和41年)、(新)北署が開署し、当署は中央署となった。
仙台空襲の焼け残り建物に入居していた当署は、老朽化から森徳横丁と東二番丁の交差点の南西角地(北緯38度15分48.1秒 東経140度52分21.1秒 / 北緯38.263361度 東経140.872528度 / 38.263361; 140.872528 (仙台中央警察署(1970年~2005年)))に新築移転されることになった。当地は、江戸時代には仙台藩藩校・養賢堂から分離して設置された仙台藩医学校(後の東北大学医学部・薬学部)や青柳文庫があり、明治維新後は仙台憲兵隊が置かれ、その後、仙台北税務署として利用されていた場所で、1967年度(昭和42年度)から3年年賦で国から払い下げを受けた[※ 1]。1970年(昭和45年)に新庁舎が完成して当署は移転。勾当台の当署の跡地には1972年(昭和47年)[2]に国の仙台第二合同庁舎が建てられた。
2005年(平成17年)2月、当署はJR仙台病院の跡地の一部である現在地(北緯38度15分15.8秒 東経140度52分45.3秒 / 北緯38.254389度 東経140.879250度 / 38.254389; 140.879250 (仙台中央警察署(2005年~)))に移転した。移転前の跡地は民間に売却されることになり、2006年(平成18年)3月に宮城県が一般競争入札を実施[3]。結果、三菱地所と鹿島が出資する「はやて特定目的会社」が予定価格の約3倍の111億1100万円で落札し[3]、仙台の「レッドバブル[※ 2]」における不動産取引の象徴の1つとなった。同地には「仙台一番町四丁目ビル」との仮称でオフィスビルが建設され、2008年(平成20年)7月29日に「東二番町スクエア」として竣工した[4]。
2019年4月に若林区の管轄が新設の若林警察署に変更した。
交番
駐在所
主な未解決事件
- 2000年(平成12年)3月6日に仙台市青葉区内で当時50歳の男性が後ろから来た男に襲われ、財布を奪われた上殺害された事件(亡くなったのは襲われた時ではなく病院に搬送された後)。未だに被疑者は浮かんでいない。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク