何震 (アナキスト)何 震(か しん、拼音: 、1885年 - ?[1])は、中国清末の革命家(アナキスト)、フェミニスト。秋瑾と並ぶ中国の女性解放運動の先駆者[2]。 原名は何班[3]。筆名は震述[4]。母方の姓との双姓により何殷震とも名乗った[5]。夫は劉師培[6]。 経歴経歴は不明な点が多い[6]。 1904年、揚州同郷の劉師培と結婚[6]。まもなく劉師培と上海に出て、蔡元培らが創設した女学校愛国女学に入学[7][8]。上海で西洋の革命思想や暗殺主義、フェミニズムを知り、革命運動に参加する[7][8]。 1907年春から1908年秋、夫とともに政府の弾圧を逃れ、明治末の東京に移住[9]、幸徳秋水や章炳麟と交流する。1907年6月、東京で「女子復権会」を創設し中心を担う[6]。同会には多くの留日女学生が参加した[10]。機関誌『天義』(天義報)は、夫妻が帰国するまで19期にわたり刊行された[11]。『天義』の主題は当初は女子復権だったが、秋水らの影響のもと、次第にアナキズムに移行した[12][13]。 帰国後は、夫ととも革命運動から離反し、端方に仲間を密告した(理由は諸説ある)[14]。以後、夫を離反に導いた悪女と評されたり[9][14]、不倫が噂されたりするなど[14]、不遇の余生を過ごした。1919年、夫が35歳で早逝すると、出家して尼僧になったとも、発狂死したとも言われる[15]。 著作・思想論説の多くは『天義』誌に掲載されている[13]。『女子復仇論』では、儒教は女性に隷従を強いる男尊女卑の教えであるとし、『女誡』の著者班昭を非難した[16]。『女性解放問題』では、当時の女性解放運動の問題点を指摘し、真の解放には無政府共産制が必要であると主張した[16]。 「女子復権会」の会則では、男性社会を破壊するための暴力を肯定した[16]。一方『女子非軍備主義論』では、秋瑾による女性軍事参加論を否定し、杜甫『兵車行』などを引いて戦争の害を説き、軍事自体の撤廃を主張した[17]。 活動初期の1904年には、林宗素宛てに、ソフィア・ペロフスカヤやロラン夫人を讃える漢詩『贈侯官林宗素女士』を、蔡元培らの『警鐘日報』誌に掲載している[18]。 日本語訳
参考文献
関連項目脚注
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