作山古墳
作山古墳(つくりやまこふん、三須作山古墳)は、岡山県総社市三須(みす)にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。また古墳周辺は吉備路風土記の丘県立自然公園として整備されている[2]。 岡山県では第2位[注 1]、全国では第10位の規模の古墳で、5世紀中頃(古墳時代中期)の築造と推定される。 概要岡山県南部の独立低丘陵を加工して築造された巨大前方後円墳である[3][4]。東方の造山古墳(岡山市北区新庄下)も「つくりやまこふん」であるため、作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と呼び分けられる[5]。これまでに本格的な発掘調査は実施されていない[3]。 墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向ける。墳丘は3段築成[3]。墳丘長は282メートルを測るが、これは岡山県では造山古墳(350メートル、全国第4位/岡山県第1位)に次ぐ第2位[注 1]、全国では第10位の規模になる[1]。墳丘外表では角礫の葺石、埴輪列が認められる[3][4]。また墳丘北側には造出を有するほか、前方部前面などには未削平の残丘がある[3][4]。墳丘周囲に周濠は認められていない[6][3]。埋葬施設は明らかでないが、盗掘坑が認められないことから、墳丘内部での現存が推測される[7][4]。 この作山古墳は、古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定される[3][4]。作山古墳の南側には近世の旧山陽道が通るが、作山古墳・造山古墳や両宮山古墳(赤磐市穂崎)がいずれも旧山陽道沿いに位置することから、5世紀にはすでに旧山陽道に先行する道があり、その道を通る人々に対して権力を誇示する意図があったと推測される[4]。一帯の首長墓系譜としては造山古墳に後続し、小造山古墳(岡山市北区新庄上・総社市下林)に先行する築造順と見られるが、順に墳丘規模が縮小する様相を示し[8]、作山古墳自体も未削平の残丘などの点で端正さを欠く[4]。なお、吉備地方では前期古墳の営造地に中期古墳はほぼ築造されず、前期古墳の存在しない地にこれら中期古墳が突如営造される点においても注目される[9]。 古墳域は、1921年(大正10年)に残丘部分を「第一古墳」とする「作山古墳 第一古墳」の名称で国の史跡に指定されている[10]。現在では毎年12月に下草刈りが行われる[11]。 遺跡歴
墳丘墳丘の規模は次の通り(2016年(平成28年)の報告値)[15]。
墳丘長に関して、かつては航空測量図を基に約286メートルという値が知られたが、1997-2014年度(平成9-26年度)の測量結果では上記の値に修正される[15][16]。墳丘は北側で良好に遺存するが、南側では民家・道路の建設により裾部で大きく改変を受けている[15]。また作山古墳の墳丘には、独特な築造企画として次の点がある[15]。
造出については、墳丘北側で認められるほか、南側にも存在可能性が指摘される[15]。造山古墳の造出がくびれ部付近にあるのに対し、作山古墳の造出はくびれ部から前方部寄りに位置し、後出的な様相になる[15]。また、この北造出のさらに前方部寄りには、規模の小さい造出状の張出し部も認められている[15]。 周濠の有無は明らかでない。周堤状の地形が見られることから周濠が存在したとする説もあるが、これについても墳丘テラス内側部分の耕作での削平によるもの(残存テラス部)という見解が示されている[9]。なお吉備地方では、造山古墳も非常に浅い周濠(または周濠なし)と見られ、畿内地方のような深い周濠を有する大型古墳は両宮山古墳のみになる[9]。
出土品作山古墳からの出土品のほとんどは、円筒埴輪・朝顔形埴輪になる[9]。これらの埴輪列が墳丘各段の平坦面に巡らされたと見られ[9]、総数は5,000本にも及ぶと推計される[11]。円筒埴輪・朝顔形埴輪のほとんどは窖窯焼成と見られ、形状は多様である[9]。製作時期にも時間幅があると見られるが、概ね5世紀第2四半世紀に始まり中頃に完成したと推定される[9]。 そのほかには形象埴輪として、わずかに武人埴輪の肩鐙片1点、蓋形埴輪片数点、器種不明埴輪片のみが検出されている[9]。 陪塚作山古墳の陪塚(陪冢)の存在は明らかでない[15]。かつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていたが、実際には前方部前面のものと同様に、未削平の残丘の1つと見られる[15]。なお、作山古墳北側の丘陵尾根上には前方後円墳の野宮古墳の存在が知られるが、作山古墳との関係は明らかでない[15]。 文化財国の史跡
脚注注釈 出典
参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
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