光政寺
光政寺(こうしょうじ)は、広島県福山市寺町にある日蓮宗の寺。山号は樹榮山。 開山は智善院日鳳聖人で、1620年(元和6年)。旧本山は京都妙覚寺。達師法縁(繋珠会)。 寺史寺伝によると開基は福山初代藩主水野日向守勝成という。 開山は智善院日鳳聖人(1644年〈寛永21年〉10月26日遷化)である。当山はもと三州(愛知県三河地方)刈谷市で一乗寺と呼称していたが、1620年(元和6年)水野家の家臣木村八太夫光政が日鳳上人を迎えて当地に移転再建した[2]。福山藩主水野家筆頭家老の上田玄蕃は水野家三代に仕え、北吉津の妙政寺を移建、さらに実相寺を開くなど法華宗に深く帰依した人であり、その士である木村八太夫光政も法華信仰深く、光政寺を護持した[3]。 当山6世覺隆院日通大徳(1698年〈元禄11年〉遷化)は、不受不施を信奉し、教義折伏教化を伝統として反権力の立場を貫徹した傑僧として著名な人物であり、当地の有力者である青山喜八郎の外護によって寺院全般にわたる整備がなされている。別に当山20世慈舟院日英聖人は学識高く人望があり、京都本山頂妙寺47世に就任された高僧である[4]。 第二次世界大戦による福山大空襲(1945年〈昭和20年〉8月8日)によって祖師堂はもとより、本堂・庫裡ことごとく灰燼に帰したが、第23世泰享院日意聖人は早々に寺門再建を意図し、粟根妙永寺本堂を譲渡され、今日にその景観を伝えている。 本堂の大改修と庫裡の新築は、開山聖人の350遠忌記念事業として1992年(平成4年)秋竣工、境内全般の整備は立教開宗750年記念事業として2001年(平成13年)に完了した[5]。 光政寺の戦後復興の歩み※出典[5] 戦後の混乱期1945年(昭和20年)8月8日の晩、アメリカ空軍B29約60機の空襲で福山市は市街地の約80%を焼失、多くの人命、財産を失った。光政寺も重厚な本堂・祖師堂・庫裡のすべてを焼失した。檀信徒の多くも住居、家財道具等すべてを焼き、食料も衣類も不足、急速なインフレなどで生活維持がやっとで、菩提寺光政寺の復興に手を付ける余裕はなかった。幸いにも駅家町大橋の檀家は空襲の惨禍から免れ、光政寺の窮状を見て復興の第一歩として仮堂建設作業に起ちあがった。昭和21年、旧庫裡跡地に仮本堂・庫裡が再建され、本尊の安住の場が確保された。 加茂町粟根妙永寺本堂の移転、改築戦後の混乱もようやく沈静化し、人々の暮らしも安定した日々が続くようになった昭和34年頃、福山市加茂町粟根の妙永寺本堂を譲り受けてはどうかとの提言があった。住職・総代・世話人で現地視察や移転、再建経費の調達等について何度も会議を持ち、最終的に宮大工で経験豊かな棟梁の手で解体・再建することが決議された。工事は順調に進み、昭和35年に素朴ながら寺としての機能が回復した。 平成の記念事業※出典[5] 1993年(平成5年)に開山智善院日鳳聖人350遠忌を迎えるにあたり、記念事業の機運が高まった。大きな課題は、現在の木造の本堂を改修するか、また、鉄筋コンクリート造りの本堂を新築するかを巡っての論議だった。結論として、木造本堂を大事に活用しようを前提に本堂大屋根の葺き替え、本堂内部の荘厳、向拝と外廊下の新設、位牌堂・客殿・庫裡・手洗いの増設等が役員会の具体的な事業案となった。そこで、
これらに取り組み、事業計画案を次のように作成した。
記念事業の円満成就を祝う落慶法要を入退寺式にあわせ、平成4年11月23日勤労感謝の日に執行した。 立教開750年記念事業宗日蓮聖人が1253年(建長5年)4月28日千葉県千光山清澄寺の旭が森山頂で、旭日に向かって初めて題目「南無妙法蓮華経」を唱え、日蓮と名のられた日から数えて、2002年(平成14年)が750年に当る。 この750年に向け、日蓮宗門をあげて壱千萬題目写経運動が始まり、光政寺は1996年(平成8年)より600巻を目標に協力を呼びかけ、当初の目標を上回る770巻を千光山清澄寺へ納経した。 一方、光政寺の記念事業として1998年(平成10年)3月頃から検討を重ねた結果、境内の整備を次のように決議した。
これらの記念事業はあしかけ3年を費やし、900万円の当初予算を大幅に上回る1,520万円となったが、立教開宗750年記念事業の満願成就を迎え2001年(平成13年)11月18日落慶法要を厳修した。 歴代の住職※出典[5]
年中行事※出典[5]
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