北条維貞
北条 維貞(ほうじょう これさだ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門、大仏流の当主。大仏 維貞(おさらぎ -)ともいう[2][3]。父は北条宗宣。六波羅探題南方・連署などを歴任した人物である。 生涯弘安8年(1285年)[1][2]、北条宗宣(後の第11代執権)の子として生まれる[1]。生誕年に関しては異説もある[1][3]が、元服時に得宗の北条貞時(第9代執権)より偏諱(「貞」の1字)を受けて[4]貞宗(さだむね、初名)[1][2][3]と名乗っていることから、その辺りの時期とみて間違いはないだろう。時期や理由は不明だが、のちに維貞に改名した。 嘉元2年(1304年)7月10日に引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ねるが、正和2年(1313年)7月26日には引付頭人を辞任している。正和4年(1315年)に六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した。しかし長期の在京を嫌ったのか元応3年(1321年)7月3日に突然鎌倉に下向している。だが当時の六波羅探題は北方が不在で探題は維貞のみであり、得宗北条高時が「御気色不快」だったため5日に再び上洛している。元亨4年(1324年)になってようやく探題職の辞任が認められ、鎌倉への帰還を命じられたが、この時に後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに8月の維貞鎌倉下向による空白の合間をぬって後醍醐天皇一派が9月に正中の変を引き起こしている。そして変後の10月30日には評定衆に返り咲いた。 正中3年(1326年)4月24日に連署となり、第16代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動によるものから内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家してから嘉暦2年(1327年)9月7日に死去した[1]。享年43。 家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが翌年4月に早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。大仏一族はのち、家時が鎌倉幕府滅亡時に自決し、貞宗、高直らが降伏後に処刑されている[5]。 人物和歌の才能に優れた文化人であり、『玉葉和歌集』に維貞の作品11首が遺されている[1][2][3]。 年譜※ 日付=旧暦
※(参考)鎌倉年代記(増補続史料大成)、北条時政以来後見次第(東京大学史料編纂所所蔵影写) 脚注
参考文献
|