千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ)は、鎌倉時代に後鳥羽院が主催した歌合。仙洞百首歌合とも言う。[1]
和歌史上最大規模の歌合であり、「新古今和歌集」撰集資料としても第1位である(90首入集)。[2]
概要
建仁元年(1201年)、後鳥羽院の命を受けた30人の歌人が100首ずつ詠進した(「後鳥羽院第三度百首」)が、この3000首が1500番の歌合に結番され、建仁2年(1202年)9月に選定された10人の判者に2巻(150番)ずつ送られた。披講や評定は行われず、判者の裁量で加判され[2]、建仁3年(1203年)春頃に成立した。[1]
各歌人が詠進した百首歌すべてを番えて歌合にするのは、建久4年(1193年)もしくは建久5年(1194年)頃成立した[1]九条家主催の「六百番歌合」が嚆矢であるが、後鳥羽院はそれをはるかに超える規模で行ったものである。[2]
出詠歌人
- 左方 15名
- 女房、左大臣、前権僧正、公経卿、公継卿、季能卿、隆信朝臣、保季朝臣、有家朝臣、具親、良平、顕昭、宮内卿、小侍従、讃岐
- 右方 15名
- 三宮、内大臣、忠良卿、兼宗卿、通光卿、釈阿、定家朝臣、通具朝臣、家隆朝臣、雅経、家長、寂蓮、俊成卿女、丹後、越前
構成・判者
判者10名で2巻(150番・300首)ずつ分判。
- 春 300番(600首)
- 一・二 藤原忠良
- 三・四 釈阿(藤原俊成) *建仁3年11月23日九十賀を賜る
- 夏 225番(450首)
- 一・二 源通親 *建仁2年10月21日薨去のため欠判
- 三 藤原良経 *判に真名序を置く。判詞が漢詩(判詩)
- 秋 300番(600首)
- 一 藤原良経
- 二・三 後鳥羽院 *判に仮名序を置く。判詞が和歌(判歌)、折句で勝敗を示す
- 四 藤原定家 *判詞に漢文と散文を併用
- 冬 225番(450首)
- 一 藤原定家
- 二・三 蓮経(藤原季経)
- 祝 75番(150首)
- 生蓮(源師光)
- 恋 225番(450首)
- 一 生蓮(源師光)
- 二・三 顕昭
- 雑 150番(300首)
- 一・二 慈円 *判に跋(和歌)を置く。判詞が和歌(判歌)
後鳥羽院・良経・慈円の判が特殊であるのは、院や摂関家の人々が晴の会で、身分の低い臣下と同様の判詞(散文)を書くのを避けたためと考えられている。[3]
伝本
伝本には3系統がある。[1]
- 改訂前の系統:高松宮旧蔵本(『新編国歌大観』底本) 等
- 改訂後の系統:書陵部蔵桂宮本 等
- 改訂前・改訂後の両方を含む混態本
脚注