吉田 政重(よしだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。
出自
土佐国の国人である土佐吉田氏は、藤原北家秀郷流の末裔を称する山内首藤氏の支流。山内首藤俊通の子・俊宗が足利尊氏に従い、功を上げ土佐に所領を得たことを始まりとする。
生涯
永禄11年(1568年)、長宗我部氏の家臣・吉田俊政の子として誕生。曽祖父・吉田重俊、祖父・重康の家系にあたる。身の丈6尺2寸(188cm)の偉丈夫で、武勇に優れていた。
天正10年(1582年)、中富川の戦いを初陣に、各地を転戦して武功を挙げた。文禄元年(1592年)から始まる豊臣氏による文禄・慶長の役では、敵将の朴好仁を捕らえるという大功を挙げ[2]、陣地を荒らしていた虎退治をしている[3]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部氏が改易されたため、政重も所領を失った。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、旧主・長宗我部盛親に従って大坂城に入城する。大坂城落城後も生き延び、土佐国に帰国した。土佐藩の土佐山内氏から、再三仕官を勧められるが、弟・正義を仕官させ、自身は医者となった。
生涯で挙げた首は115個にも及び、首より上の傷は21ヶ所もあり、身体の傷は数えるいとまもないほどだったとされる[4]。
脚注
- ^ 『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」に、中富川の戦い(1582年)の時点では名乗っていないが、後に改名したと記す。
- ^ 『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」。巻第十七「山内七郎兵衛妻女の事」に、文禄3年(1594年)、元親勢が生け捕った380余人と共に土佐へ行くが、朴好仁は秋月城主であったことから秋月氏と呼ばれた(脚注に、「のちに妻子を残し、帰国」とある)。
- ^ 『土佐物語』によれば、虎は2発の鉄砲玉を受けても死なず、政重が首を斬りつけても、逆に首をかんで(兜で防いだ)、喉を七刀で刺し、止めをさした。長宗我部元親は感状と康光の刀を与え、『日本書紀』の虎退治をした大将の逸話から、「その者に劣らないので、虎の爪を切りとり、土産とせよ」と言い、吉田家に江戸時代になっても伝えられていると記す。
- ^ 『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」。