坪内宗高(つぼうち むねたか、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代ごろにかけての武将。実名は前野自勝[2]で前野宗高とも表記される。前野長康の家老で但馬国出石城代。
人物
前野忠勝の子とされ、前野自勝を名乗る。養父の前野自唯と実父の忠勝からそれぞれ「自」「勝」の字の偏諱を受けた。坪内利定(利之)の娘婿となっていたため坪内姓で表記されるが、実際には前野を名乗っていた。
永禄10年(1567年)、木下秀吉の軍勢に前野長康御内衆として参陣し、伊勢国に発向する[3]。元亀元年(1570年)、秀吉が横山城代になるのに従って、弟の忠康や前野勘兵衛とともに城番となった[4]。
自勝の次男である前野自性は生駒家の江戸詰家老で、江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こった御家騒動「生駒騒動」で生駒将監らと対立して切腹処分となったが、切腹する前に病死した。前野助左衛門の子・前野唯雪は切腹となった。子孫は代々阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。
この子孫の系統によって書かれた系図には、名を小兵衛、のちに兵庫、佐々成政の妹を室とした、とされているが、それぞれ前野勝長、前野忠康、前野吉康との混同である。
氏族
宗高は坪内姓を名乗っていたが、父・勝長と同じく本来の姓は前野である。前野氏(良岑氏流前野氏)は、桓武天皇の子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統で、良岑高成(原高成)の子である良岑(前野)高長もしくはその曽孫である前野時綱が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町から大口町辺り)に移り住んで前野を名乗ったのが始まりとされている。また、坪内忠勝の代から続く坪内氏は称良岑氏流前野氏系坪内氏といい、坪内氏ではなく前野氏の派生氏族に分類される。
系譜
脚注
注釈
- ^ 『尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図』に前野宗高の長男、助左衛門(自性)の兄として記載あり。しかし自性の子孫によって江戸時代末期に書かれた系図には記載がない。しかし子孫の系図は自性の父について前野勝長、前野忠康、前野吉康ら他の人物との混同がみられる。
出典
- ^ a b 『尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図』
- ^ a b c 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』
- ^ 『武功夜話』巻四「木下藤吉郎勢州発向覚えの事 五宗記写し」
- ^ 『武功夜話 巻四』江州において、前野将右衛門尉御内衆の覚え
参考