大島行弥大島 行弥(おおしま ゆきや、1965年1月30日 - )は、福岡県出身の元オートバイ・ロードレース選手。1987年の全日本ロードレース選手権TT F1クラスチャンピオン[1]。ヨシムラ・スズキのライダーとして1988年のデイトナ200マイルレースに出場した[2]。 経歴1982年秋に西日本サーキットでロードレースデビュー、初レースで3位に入る。1983年は西日本選手権ロードレース・プロダクションF3クラスに参戦。1984年、西日本選手権ノービス250ccで初優勝し頭角を現す。西日本選手権では宮崎敦が同時期に同カテゴリーに参戦していた。1985年、西日本選手権ノービスF3チャンピオンを獲得[3]。 西日本サーキット以外でのレースに参戦するにはどうしたらいいのか考えた結果、鈴鹿のモリワキエンジニアリングにレースをやり続けたい気持ちを記した手紙を送る。その中で「全日本最終戦・鈴鹿大会(日本GP)に遠征参戦するので自分の走りを見てください。」と思いを書いた。その手紙のレースに賭ける純粋な内容が森脇夫人(吉村秀雄の長女)の印象に残ることとなる。鈴鹿でのレース結果はエンジントラブルで散々なものだったが、森脇夫人が大島の存在をヨシムラに話したことがきっかけとなり、以後のライダー人生が大きく動くこととなった[4]。 1985年オフ、大島の西日本での好成績もあり、森脇夫人が推薦したヨシムラへの加入が決まる(ヨシムラ加入は国際B級からの昇格となる宮崎祥司と同期)。ライセンスも国際A級への特別昇格が認められ、ヨシムラ・スズキGSX-Rで1986年の全日本TT F1クラスにフル参戦することが決まった。加えて、ヨシムラのエースである辻本聡がF1第2戦の予選で足を骨折。押しがけスタートが負担となるため、シーズン途中でダブルエントリーしていたTT-F3クラスへの参戦を休止することになり、その代役として大島がF1だけでなくF3にも参戦しダブルエントリーすることとなった。同年はTT F1で連覇を目指す辻本の背中を追い、大島もF1第4戦SUGOでのポールポジション獲得をはじめ、辻本との1-2フィニッシュも2度記録しランキング2位を獲得。一躍トップライダーの仲間入りをする。 1987年7月26日の鈴鹿8時間耐久ロードレースではケビン・シュワンツとのコンビで参戦。ヨシムラのエースナンバー12号車で優勝も期待される組み合わせだったが、序盤にマシントラブルが発生し早々にリタイアする結果となった[5]。8月30日にSUGOで日本ラウンドが開催された「ポカリスエット'87TTフォーミュラ世界選手権第6戦」では、予選3位グリッドを獲得し、決勝レースでは序盤からレースの大半でトップを走行したが、ピットイン後ペースアップしたケビン・マギー(ヤマハ・YZF)に逆転され惜しくも世界選手権での勝利を逃し2位となった(日本選手最高位)。なお、3位のマイケル・ドゥーハン(ヤマハ・FZR)を抑えきっての表彰台獲得であった[6]。 同年の全日本シリーズ戦では前年に続いてダブルエントリーを継続、TT F1では第7戦筑波でA級初優勝を挙げると以後3連勝と獲得ポイントを伸ばし、前年のチームメイト・宮崎祥司(同年からホンダ陣営ブルーフォックスへ移籍)とのタイトル争いを制しシリーズチャンピオンを獲得[7]。ヨシムラ・スズキとしては前2年の辻本を引き継いでのTT F1クラス3連覇となった。 TT F3クラスでもF1クラスの開催がなかった第9戦筑波で1勝を挙げ、ランキング3位を獲得する。 1988年3月、前年の辻本と同じくAMAデイトナ200マイルレース[8]に遠征[9]。ヒートレースで1位、200マイルレースではダグ・ポーレン、ケビン・シュワンツと争う中で序盤トップを走行する健闘を見せた[2]。 1990年シーズンからヨシムラの全日本TT F1フル参戦はダグ・ポーレン[10]と高吉克郎に集約されることになり[11]、大島の参戦は終了した。 レース戦歴全日本ロードレース選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
外部リンク
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