大崎義宣
大崎 義宣(おおさき よしのぶ)は、戦国時代の武士。陸奥国の戦国大名・伊達稙宗の次男で、大崎義直(または大崎高兼)の養嗣子[1]。幼名は小僧丸。 生涯大崎内乱と小僧丸の入嗣大崎氏は奥州探題として陸奥国・出羽国の武士をまとめてきた家柄だが、戦国時代に入って広域の軍事・行政権限を行使できなくなり、現在の宮城県北西部の河内地方、大崎5郡に割拠する一大名になっていた。陸奥国では伊達氏が力を伸ばし、奥羽の中で随一の実力をもって周辺諸氏を服属させつつあった。 天文3年(1534年)、その領国で内紛が起こり、大崎義直は天文5年(1536年)に伊達稙宗の力を借りて反乱を鎮圧した。そして稙宗は、わが子の小僧丸を義直の養嗣子として送り込んだ。稙宗の説明によれば、川内一党、すなわち大崎家家臣団の頻りの懇望によるという。このとき稙宗の嫡子伊達晴宗は、父の意に反して古河(古川)に警護の兵を置き、後の天文の乱に連なる不協和が生まれていた。 仙台藩が編纂した『伊達正統世次考』巻8下は、稙宗から黒川郡の黒川景氏の家臣福田広重らにあてた10月7日付の書状の要約を載せる。入嗣に直接触れる確実な史料はこれだけだが、書状には年が書かれていない。『伊達正統世次考』は、小僧丸の入嗣を反乱鎮圧の後とする。これに従い、入嗣を内乱収束後の天文6年(1537年)頃にと推測する学者がいる[2]。 しかしやはり江戸時代に書かれた「旧川状」(古川状)という記録は、義直は、稙宗の二男を跡継ぎにしていた縁で、天文5年(1536年)2月に伊達氏の援兵を引き出したと記す[3]。内乱後の入嗣ではない。「旧川状」を根拠に、天文2年(1533年)頃に入嗣し、それに対する家中の反発が内乱を引き起こしたと考える学者もいる[4]。前の説に従うと小僧丸の入嗣は本人が数えで12歳、兄の晴宗が19歳のとき。後の説では本人が8歳、晴宗が15歳のときである。晴宗は23歳で父に反旗を翻すこととなるが、古川で独自行動を起こした年齢をどう考えるかが問題となる。 大崎再乱小僧丸が大崎の跡継ぎになったのは伊達氏の軍事力を背景にしたもので、家中には反発が渦巻いていたようである。 大崎氏の内乱は、天文10年(1541年)頃に再発した。このとき伊達稙宗は再び大軍を率いて介入した[5]。従軍した伊達晴宗が戦地で出した書状に「勿論小僧丸我等の一大事」なる文言がある[6]。 天文の乱天文11年(1542年)6月、稙宗・晴宗父子が争う天文の乱が始ると、義宣は実父の稙宗にくみしたが、義父の義直は晴宗側に立った。天文12年(1543年)5月までに宮城郡南部の国分領に入り、国分の宿敵である留守氏と対抗した[7]。6月16日に義宣は、名取郡高館の福田玄蕃と留守氏に属する村岡蔵助に、稙宗に味方したことを認め励ます書状を送った[8]。留守氏の家臣の切り崩しにかかったということである[9]。7月12日には稙宗が、義宣が軍事行動を起こしたことを名取郡の秋保則盛に伝え、刈田郡と柴田郡の計略を相談するよう指示する書状を送った[10]。稙宗は13日には柿沼広永にも同趣旨の書を送った[11]。8月10日に稙宗は山岸宗成と山岸勝定にも同趣旨の書状を送り、戦闘状態が続いていたことが知られる[12]。そして9月12日には支倉忠常の本拠である柴田郡長谷倉におり[13]、少なくとも翌年1月までその地に在陣した[14]。大崎領から南に離れた伊達勢力圏の北東部で、稙宗党をまとめるべく活動したようである。 義宣は大崎領内では東端にあたる不動堂を拠点とし、天文13年(1544年)に攻め寄せてきた大崎義直の軍と対陣した。不動堂には天文16年・17年(1547年・1548年)にも義直軍が寄せてきた。結局、大崎領の中で義宣はほとんど足場を築けなかったようである[15] 暗殺乱後、稙宗が隠居して晴宗が伊達氏を継ぐと、義宣は居所がなくなった。『伊達正統世次考』によれば、自分と同様伊達氏から葛西氏の継嗣に入った実弟の葛西晴清を頼って逃げる途中、葛西領内の桃生郡辻堂で義直の討手にかかって殺されたという[16]。『会津四家合考』は病死とするが、一般には暗殺説が採られている[17]。 大崎継嗣と当主江戸時代に仙台藩が編纂した史書『伊達正統世次考』と同じく系図『伊達族譜』では、義宣を第12代の大崎氏の当主とし、20世紀まで歴史学者もこれを踏襲していた[18]。 しかし『伊達正統世次考』にも事実としては義宣がひとたび跡継ぎになってから追い出されたことが綴られる。義宣を大崎氏歴代のうちに数えるのは、伊達氏を重んじる立場からの修飾と言えよう[19]。 年譜
注記
参考文献
|