大江挙周
大江 挙周(おおえ の たかちか)は、平安時代中期の貴族。式部大輔・大江匡衡の子。官位は正四位下・式部大輔。 経歴父・匡衡と同様に紀伝道に進み、文章得業生を経て、長保3年(1001年)対策に及第。なお、『本朝文粋』には対策の答案が採録されている[1]。寛弘3年(1006年)一条天皇の東三条殿行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて六位蔵人に任ぜられた[2]。 寛弘5年(1008年)ごろ巡爵により従五位下・筑前権守に叙任される。三条朝に入ると、春宮・敦成親王の東宮学士に任ぜられ、長和3年(1014年)敦成親王の御読書始の御博士役を務めた[3]。 長和5年(1016年)敦成親王の践祚(後一条天皇)に伴って従四位下に叙せられる。後一条朝では侍読や文章博士を務めて正四位下・式部権大輔に至った。また、地方官として、和泉守・三河守・丹後守を兼帯した。 後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)6月卒去。臨終に際して、自らの学者としての生涯に満足していると語り、絶命のとき瑞相が出現したという(『続本朝往生伝』)。 逸話・説話挙周の出世が伸び悩んでいる時に、母の赤染衛門は藤原道長の妻倫子に歌を送った。
頭の雪=自分の白髪とかけ、年老いつつも息子を案じる母の心を詠んだ歌であるという。 道長はこの歌を見て同情の心が湧き、挙周は和泉国国司に任じられた。だが挙周は国司赴任中に病にかかってしまった。挙周の病は重くなる一方であったので、赤染衛門は京から急いでかけつけ、住吉神社で息子の治癒を祈願した。御幣には一首の歌が添えられていた。
自分の命を捧げても惜しくはないので、息子だけは助けてほしいという歌であった。やがて挙周の病は全快したが、母の行動を伝え聞いた挙周は同じように住吉神社に赴き、「母が死んでは生きてはいけないので、母が捧げた命は自分の命で補ってほしい」と祈ったという。 以上の説話は『赤染衛門集』、『今昔物語集』巻第二十四に収められるほか、『十訓抄』巻十、『古今著聞集』巻五などの説話集にもとられて広く流布した(本記事の歌は『今昔物語集』の本文による)。 官歴
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