大阪湾
大阪湾(おおさかわん)は、大阪平野と淡路島の間に位置する湾である。 概説瀬戸内海の一角を形成し、明石海峡と紀淡海峡の2箇所の開口部をもつ閉鎖性海域である[1]。古称・別称は「茅渟の海(ちぬのうみ)」や「和泉灘(いずみなだ)」。 瀬戸内海の最東端で、おおむね淀川の延長線上に約60kmの長軸、直交して約30kmの短軸をもつ楕円形をしている。明石海峡で播磨灘に、紀淡海峡で紀伊水道さらに太平洋へと通じる。水深は淡路島側が深く、明石海峡から紀淡海峡へ約1ノットの潮流が生じている。 南は紀淡海峡[注 2]、西北は明石海峡[注 3]及び本州[注 4]によって囲まれた海域であり、これは「大阪湾再生行動計画」[注 5]による定義である[2]。 北岸と東岸は三大都市圏の一つである近畿圏の中心地で、沿岸部は阪神工業地帯を形成している。複数の大規模な港湾[注 6]が並び、関西国際空港と神戸空港という二つの海上空港も建設されている。これらの工場・港湾・空港用地を確保するために埋立地の造成も盛んに行われ、空港島のほかにも様々な人工島[注 7]が並ぶ。また、ごみ最終処分場として大阪湾広域臨海環境整備センター[注 8]が設置され、近畿2府4県の160を超える自治体が共同利用している。 臨海部の埋立地には工場や物流・交通施設だけでなく、商業・娯楽施設[注 9]、医療関連の施設・研究機関、マンションなども立地している。 自然環境大阪の別称「なにわ」は「魚(な)庭」を語源とする説があるほど、魚介類が豊富な海域として古来知られていた。流入する武庫川、猪名川、淀川、大和川、大津川などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。 しかし、都市圏に隣接する閉鎖性水域であり[注 10]、比較的早い時期から水質悪化などの環境問題が生じた。第二次世界大戦後に進んだ沿岸の開発や都市化で干潟など自然海岸の消失や赤潮の頻発もふくめて水質汚濁が進んだが[注 11][3][4]、現在でも大阪府の泉州地方の南部や神戸市の須磨区や垂水区、淡路島の東岸には比較的に自然に近い海岸も残されており、海水浴場などの行楽地や漁港が点在し、漁業やマリンスポーツとしての釣りが行われている。しかし、魚介類の生息にも環境破壊の影響は顕著にみられ、全体的な漁獲量の減少やガザミ類やモガイ(サルボウ)などの急減も招いた[3]。 生態系の破壊や環境破壊が深刻化する以前は、鯨類[注 12][5][6][7][8]やニホンアシカ[9][10]やウミガメや大型魚[注 13][11]が大阪湾を含む瀬戸内海に普遍的に回遊・分布していたとみられる。 近年でも、天然記念物のスナメリ[注 14]が関西国際空港周辺に定着し始めていると判明し[12]、ウミガメの産卵地点もいくつか存在し[13]、ハセイルカやミナミハンドウイルカなども時折現れる[14][15]。また、今でこそ瀬戸内海への通常の回遊こそ消滅したが、近代になってからもクジラ[7][16][17][18]やシャチ[8]やサメやクロマグロ[11]やバショウカジキなどの確認例[注 15]も存在し[15]、特筆すべき事例もいくつか含まれる[注 16][注 17][19][20]。 また、男里川や大津川などはシオマネキやシギやチドリなどの生息地として知られている[3]。 歴史交易の海古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだことが由来となっている。 瀬戸内海航路の起点として、古代の朝廷は淀川の河口に難波津や住吉津などを置いた。これらはシルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄えた。内陸の飛鳥や平城京、平安京とは河川舟運で結ばれ、さらに陸路で東日本へ繋がっていた。また国が対外的に開かれた時期は難波宮や難波京、福原京(計画)などの都が置かれた。 淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇が即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。 平安時代末期には平清盛が大輪田泊を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。戦国時代には兵庫津や堺港が日明貿易と南蛮貿易で栄えた。西日本の交通の要衝であるため交易だけでなく、戦国時代には度々戦場となった(木津川口の戦い)。鎖国で対外交易が途絶えた江戸時代には安治川口・木津川口が繁栄して北前船、樽廻船、菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。 近現代の海軍省や海上保安庁が刊行する海図においては、1954年まで別称の「和泉灘」と表記されており、以降も1966年まで「大阪湾(和泉灘)」と併記されていた。
景勝地淀川以南には、住吉の浜や高師浜など白砂青松の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。天智天皇の子の長皇子が住吉の浜の霰松原の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「住吉模様」は、住吉大社の社前の景色を図案化したものである。 堺以南には明治以降に多くの海水浴場が設置され、海浜リゾート地として賑わっていたが、高度成長期に工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。 現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる六甲山地の掬星台が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。 工業地帯と将来大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また、堺泉北臨海工業地帯などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも1980年代以降の産業構造の変化に対応しきれない状態があった。 現在は官民協力で湾岸の再生が構想されておりシャープが堺市堺区の新日本製鐵堺製鐵所の高炉跡に液晶パネル工場、パナソニックが尼崎市にプラズマパネル工場を建設している。また、パナソニックが大阪市住之江区の関西電力大阪発電所跡地に、三洋電機が貝塚市にリチウムイオン電池工場を建設している。 堺市付近は新エネルギーの開発拠点ともなっており、堺市西区にはバイオエタノール・ジャパン・関西の稼動、関西電力による大型太陽光発電所が建築中である。 交通本土と淡路島とは1949年(昭和24年)から1999年まで兵庫県洲本市 - 大阪府岬町間に定期航路「洲本 - 深日航路」があった[21]。2017年から航路の復活の社会実験を行う「深日洲本ライナー」が運航されている[21]。 環境問題自然砂浜の消失、水質汚濁、生物多様性の低下などの問題がある[1]。 海底の環境
大阪湾の水質
合流式下水道越流水問題雨水も家庭排水などの下水も、下水道を通じて下水処理場まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での大腸菌数の増加など、環境影響が発生している。 災害リスク江戸時代以前には、大阪市街にも津波が襲来した記録がある[28]。大阪府と兵庫県は、南海トラフ巨大地震を想定した津波ハザードマップを作成・公表している[29][30]。 沿岸の自治体脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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