姜泰敏(カン・テミン、朝鮮語: 강태민、1922年 - 1960年10月[1])は満州国、大韓民国の軍人。最終階級は陸軍少将。本貫は晋州[2]。
略歴
満州国陸軍軍官学校第3期予科卒業。陸軍士官学校第58期に編入[3]。1949年、陸軍士官学校第8期特別第4班を卒業して任官(軍番13508番[3])[4]。当初海軍に配属され、士官学校の生徒隊長を務めていたが[5]、のちに陸軍に転じ、独立装甲連隊第1大隊長[6]。1950年2月15日、第22連隊長(中領)[7]として6月の朝鮮戦争勃発を迎え、新寺洞 - 果川の戦い(朝鮮語版)[8]、ついで7月24日から盈徳の戦いに参加[9]。8月9日に橋の過早爆破により多くの将兵が溺れ、1個大隊分の装備が遺棄されたため8月15日付で更迭された[10]。その後、国民防衛軍士官学校校長、第3師団参謀長を経て、1951年5月25日、朴正煕の後任として第9師団参謀長[11]。
戦争後期の52年10月13日、「16人の砲兵将星」[注釈 1]の一人に選抜され、光州砲兵学校での3か月間の訓練を経て米国に留学[12]、帰国後砲兵指揮官および准将進級。1953年、第9師団(師団長:李翰林少将)砲兵団長[13]。1957年8月、第26師団長[14]。
戦後、第3軍団副軍団長、第8師団長を経て、少将昇進後に軍捜査副司令官を務めた。
1959年4月26日[15]、第2次粛軍断行の折、様々な事故の指揮責任により、第20師団長李貞錫准将と共に予備役に編入された[16]。この時すでに癌に侵されており、帰郷後は農業をやりながら療養生活を続けていたが[17]、翌1960年に死去。同年11月4日、少将追敍[18]。
エピソード
1期先輩の朴正煕とは親しい間柄で、毎週日曜になると朴の自宅を訪ねては歓談していたという[19]。
フィリップ・チャールズ・ハビブの報告書によれば、白善燁の追従者であるという[20]。
注釈
- ^ 朴正煕大領(第2軍団砲兵団長
、大統領)、朴璟遠(第11砲兵団長、内務長官)・李奇建(第9砲兵団長、准将)、李明載(이명제、少将)、 宋錫夏(少将)、李昌禎(이창정、少将)、金永周(김영주、准将)、崔慶萬(中将)、朴炫洙(박현수、少将)、金東洙(第15砲兵団長、准将)、李春景(이춘경、第20砲兵団長、准将)、金相福(第1軍団砲兵団長、中将)、姜泰敏大領(第9師団砲兵団長、少将)、金東斌(第7師団砲兵団長、中将)、李喜権(이희권、第12師団砲兵団長、少将)、李白雨(이백우、第12砲兵団長、少将)の16人。
脚注