孝荘文皇后
孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう、満州語:ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ 生い立ちブムブタイは万暦41年2月8日(1613年3月28日)に生まれた。天命10年(1625年)、13歳の時に、ヌルハチの八男のホンタイジの側室となった。これより以前、彼女の叔母に当たるジェルジェル(Jerjer、哲哲、孝端文皇后)が正妻となっていた。翌年、ホンタイジがハン位を継承した。天聡3年(1629年)、ブムブタイは長女のヤトゥ(Yatu、雅図、後の固倫雍穆公主)を出産、天聡6年(1632年)には次女のアトゥ(Atu、阿図、後の固倫淑慧公主)を出産、翌年には三女の固倫端献公主を出産した。天聡8年(1634年)には彼女の姉のハルジョル(海蘭珠)が嫁いだため、ホンタイジにはボルジギト氏より3人の女性を娶ることとなった。崇徳元年(1636年)、ホンタイジは皇帝位を称し改元、ブムブタイは永福宮荘妃(hūturingga booi jingji fujin)に封じられた。崇徳3年(1639年)、ホンタイジの皇九子のフリン(Fulin、福臨、順治帝)を出産した。 崇徳8年(1643年)、ホンタイジが死去したため、皇位継承を巡り一族内で対立が発生した。ホンタイジの異母弟のドルゴンはフリンを擁立し、ブムブタイは皇太后となった。順治8年(1651年)2月には尊号を昭聖慈寿皇太后(genggiyen enduringge gosingga jalafun hūwang taiheo)とし、同年8月には昭聖慈寿恭簡皇太后(genggiyen enduringge gosingga jalafun gungnecuke boljonggo hūwang taiheo)となった。順治11年(1654年)には皇太后の父親は和碩忠親王に、母親は賢妃に封じられた。順治13年(1656年)12月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶皇太后に尊号が加えられた。 順治18年(1661年)、順治帝が逝去後、皇三子の玄燁(康熙帝)が即位したことにより太皇太后と呼ばれるようになった。康熙元年(1662年)、昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵太皇太后(genggin enduringge,gosingga jalafun,gungnecuke boljonggo,nesuken fujurungga,iletu huturingga,ujen fulehun tai hūwang taiheo)に尊号が加えられた。康熙4年(1665年)9月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘太皇太后に、康熙6年(1667年)11月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和太皇太后に、康熙15年(1676年)正月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和仁宣太皇太后(genggiyen enduringge,gosingga jalafun,gunggecuke boljonggo,nesuken fujurungga,iletu hūturingga,ujen fulehun,nemegiyen ambalinggū,elhe hūwaliyasun,gosin algika tai hūwang taiheo)に、康熙20年(1681年)には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和仁宣弘靖太皇太后と尊号が加えられた。 康熙26年12月25日(1688年1月27日)、死去した。享年は75。康熙帝は、危篤時の太皇太后の発言により、彼女を順治帝が埋葬されている孝陵付近に埋葬した。康熙27年(1688年)10月には孝荘仁宣誠憲恭懿至徳翊天啓聖文皇后と諡号を贈った。雍正帝は、雍正3年(1725年)12月に彼女の棺を別のところに移し、そこを昭西陵とした。乾隆帝は、乾隆元年(1736年)3月に彼女に孝荘仁宣誠憲恭懿至徳純徽翊天啓聖文皇后と諡号を贈った。 評価孝荘文皇后は、ホンタイジ・順治帝・康熙帝の3代の皇帝を輔佐した。清朝が漢民族を支配するにあたり、漢民族を礼遇する一方、満洲民族・モンゴルの教訓を吸収した。また、西洋の知識も尊重し、康熙帝の西洋の科学技術受容に影響を与えた。歴史学者には清末の西太后と比較する者もいる。 順治帝即位ホンタイジは後継者を決めていなかったため、その没後に後継者争いが起きた。粛親王ホーゲ、ドルゴンの争いの間隙を縫って実子フリンの後継を決め、ドルゴンを摂政王にすることで提携、後継者争いに収拾をつけたのであった[2]。 ドルゴン降嫁野史では、孝荘文皇太后がドルゴンに嫁いだとされる。中国のドキュメンタリー番組『清宮秘档』[3]の観点では、彼女がドルゴンに嫁いだ事実はないとしている。後金時代までの満州民族の間では兄が死んだ後に弟が兄嫁を娶ること(レビラト婚)は普通に行われていたが、ホンタイジの時代にレビラト婚を禁じる布告がなされており[4] 清朝期に漢民族の風習の影響を受けて恥となったとしていると、ある歴史学者は認めている。しかし、ドルゴン降嫁の事実は嘘であるということで、当時の歴史学者は正史に記載しておらず、漢民族が満州民族の支配に反発してデマを流したとされる[5]。 康熙帝輔佐康熙帝が若年であったこともあり、康熙帝がオボイ、三藩の乱を平定するにあたり、彼女が謀をしたとする歴史学者もいる。 系図
関連作品孝荘文皇后は多くの作品では、すでに重要人物の一人として取り上げられている。なお、一部のテレビドラマでは孝荘文皇后の名前を大玉児としているが、彼女がその名を名乗ったことはなく、野史で誤って伝承された名前が利用されているだけである。 小説テレビドラマ
脚注
参考文献
外部リンク |