宮沢吾朗宮沢 吾朗(みやざわ ごろう、戸籍上の表記は宮澤 吾朗、1949年11月29日 - )は、囲碁の棋士。北海道帯広市出身。木谷實九段門下、日本棋院所属、九段。 人物・略歴経歴父は衣料店経営の傍ら囲碁の指導をしていたアマチュア強豪[1]で、6歳の頃に兄(宮沢は5男3女の8人きょうだいの末っ子[1])から碁を教わる。11歳でアマ4段くらいになった1961年、木谷實九段が弟子の上村邦夫・久島国夫(共に現九段)・高畑(柴田)寛二を連れて帯広にやって来た。そこで高畑と3子で打ち木谷に認められ釧路へ1週間同行することになる。後日木谷道場への入門を勧める手紙が届き、11月、大野正由地方棋士とともに帯広の家を出発。青函連絡船に乗って道場へ向かった。同年に日本棋院院生となる[2]。 この頃の木谷道場は弟子の数が最も多く一番活気があり、石田芳夫(現二十四世本因坊)加藤正夫(現名誉王座)や趙治勲(現名誉名人)らがいた。学年がひとつ下で後からやって来た武宮正樹(元名人など)にあっという間に追い越されたのが一番刺激になった[2]。 その後、1966年に入段。1976年に棋聖戦五段戦で優勝。1980、85年に新人王戦優勝。1981年天元戦ベスト4。1985、86年に棋聖戦七段戦に優勝し、最高棋士決定戦ベスト8進出。1986、89年王座戦ベスト4。1992年の十段戦では勝者組を勝ち抜いて挑戦者決定戦に進むが、小林光一棋聖に敗れる。同年名人戦リーグ入りするが1勝7敗で陥落。1992年九段。1996年本因坊戦リーグで2勝5敗。1997年JT杯星座囲碁選手権戦ベスト4。2000年の棋聖戦リーグでは2勝3敗で残留、翌年も2勝3敗ながら陥落。2005年にもリーグ入りするが5敗で陥落。2009年にもリーグ入り。2011年NHK杯戦ベスト4。 日中囲碁交流には、1981、84、86年に参加。通算成績は860勝583敗6ジゴ(2014年時点)。 1977年の曲励起との第33期本因坊戦三次予選(決勝)の対局は、強烈な戦いの連続の碁であり、『打碁鑑賞シリーズ 宮沢吾朗』に収録されているほか、囲碁将棋チャンネルの番組『記憶の一局』で、下島陽平の「生涯の『記憶の一局』四局のひとつ」として紹介され、また同番組で宮沢吾朗本人も自身の『記憶の一局』の一局としてあげた。 趣味・家族魚類学者・タレントのさかなクンは実子[3]。趣味は50歳を過ぎて始めたオートバイで、愛車はカワサキ・GPX250R/II。 棋歴と棋風棋風石の形や筋がよく、鋭い着眼で猛攻を仕かける剛腕家。アマチュアから高い人気を得ており、心酔するファンも多い。ニックネームは「無冠の帝王」。 ビッグタイトルにこそ恵まれなかったものの、新人王戦2回、3大リーグにそれぞれ在籍するなど、80〜90年代にかけて一線級の棋士として活躍した。 師である木谷が宮沢を初めて見た際、「久しぶりに尾のハネ上がった鯛をつかまえた」と言ったという。打碁集(日本棋院、2005年)の解説には「先生の常識は世の非常識。常識人でありたいのなら、この先生の碁に深入りしてはならない。」とまで書かれた。 棋歴
著作
脚注
外部リンク |