小野忠重小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 1990年10月17日)は日本の版画家。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもある。 1932年から藤牧義夫らとともに「新版画集団」(その後、造形版画協会に名称変更)を結成。失踪した藤牧が最後に会った人物としても知られる[1][2]。 経歴東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)の向島小梅一丁目の酒屋の子として生まれる[3][4]。 1927年、早稲田実業学校卒業[5]。在学中から卒業まで本郷絵画研究所に学ぶ[3]。卒業後は絵描きになりたいと思いつつも、建築資材の商店で働いたり、小説家、俳優、代用教員の道を模索したりもするも叶わず、家業の酒屋を手伝う[5]。 1929年、日本プロレタリア美術家同盟主催の第2回プロレタリア美術展に油彩と版画を出品[3]。 1930年、プロレタリア美術展に油彩と版画を出品[5]。このとき同じく出品していた黒澤明のポスターが治安当局により撤回させられる[5]。 1931年、プロレタリア美術展に連作「三代の死」出品[6](ただし展覧会目録に出品の記載なく、没後に回顧展を開いた町田市立国際版画美術館学芸員らに否定されている[5])。 1932年、日本版画協会第2回展に出品。藤牧義夫らと「新版画集団」を創立。 1936年、日本版画協会主催の「欧米巡回展」の出品作品に選定される。第1回版画協会賞受賞。同年、新版画集団を解散し、「造形版画協会」を設立[3][8]。 1941年、戦争により法政大学高等師範部を繰り上げ卒業し、岡山の素封家の娘である後妻と美術系出版社「双林社」設立[8]。 1942年、民間の国策団体を統括指導する「南洋団体連合会」に勤務[8][9]。 1945年、召集されるも2週間で兵役解除となり、後妻の実家がある津山に疎開[8]。 1948年、第2回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)出品。 1961年、ソ連で初めての現代日本版画展に招待される[3]。帰国後、エッセイ「ソ連の美術館」、「ソヴィエットの日本画」を『三彩』に掲載。 1963年、東京藝術大学版画研究室の講師となる[3](1977年まで[10])。 1966年1月、「版画・戦後20年の歩み」を『みづゑ』に発表。「日本の木版技術と複製」を『東京藝術大学美術学部紀要』(通号 2)に掲載。 1967年、「民衆版画考」を『東京藝術大学美術学部紀要』(通号3)に掲載。 1968年、第6回東京国際版画ビエンナーレ展諮問委員を委嘱[11]。 1970年、装幀に関する研究成果として、「本の美術史」の連載を『三彩』で開始。 1972年、第7回東京国際版画ビエンナーレ展諮問委員を委嘱される[12] 1979年、紫綬褒章を受章[3]。新版画集団時代の画友・藤牧義夫の遺作展に所有の藤牧作品とされる版画85点を出品[13]。 1989年、『小野忠重と「新版画」の作家たち展』(神奈川県立近代美術館)開催。小野にとって公立美術館での初の展覧会となった[13]。 1990年10月17日、肺炎のため東京警察病院で死去[10]。 2009年10月3日~11月23日、生誕100年記念の展覧会「小野忠重展 昭和の自画像」が町田市立国際版画美術館で開催[7]。 主な著作画集・図録
版画手引き書
美術解説書
翻訳
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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