岩惣
みやじまの宿 岩惣(みやじまのやど いわそう)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある旅館。 施設紅葉谷公園の入り口に建ち、厳島神社まで徒歩3分の位置にある[2]。紅葉谷川に沿うように本館・新館、5つの離れからなる。客室はすべて和室、料理は懐石[2][1]。以下、主に公式ホームページから参照
本館の奥側にある。一室一棟の平屋建が5つあり、公式的には4つ案内されている。以下本館に近い側(西側)から列挙する。
これとは別に1933年(昭和8年)竣工の貴賓室として用いられている「錫福館」がある[8][9]。
沿革
厳島神社で管絃祭が行われると、周辺ではその前後1ヶ月間市がたち賑わっていた[10]。それに目をつけた初代岩国屋惣兵衛は、嘉永年間(1848年-1855年)因幡屋茂吉と共に紅葉谷の開拓を広島藩宮島奉行所に願い出る[7][11][10]。これが認められ、惣兵衛と茂吉は紅葉谷川を挟んで競いあうように地をならし草木を植え亭を建てた[11]。そして2人は亭を結ぶように橋をかけた[11]。これが現在の紅葉谷公園となる。 安政元年(1854年)、惣兵衛は茶店を開業する[11][8][10]。なお岩惣の名はこの岩国屋惣兵衛からきている[10][7]。 明治に入ってすぐ旅館として開業した[10]。明治25年(1892年)、弥山木を利用して母屋、現在の玄関部を建築した[11]。 岩惣公表によると、当時の女将が「なにかお客様に岩惣でしか味わえないお茶菓子をお出ししたい」とカステラ生地の中にこしあんを入れたまんじゅうを考案、それを高津堂の高津常助に制作を依頼して明治39年(1906年)「紅葉形焼饅頭」のちのもみじ饅頭が誕生した[11](伊藤博文が岩惣の茶屋で休憩していた折、給仕した娘の手を見て「なんと可愛らしい紅葉のような手であろう、食べてしまいたい」と冗談を言ったのを岩惣の女将が聞きとめ依頼した[1]、という風説もある。一般には、岩惣の女将が高津に依頼、高津が試行錯誤の末もみじ饅頭の考案したとされる[12]。) 大正から昭和初期にかけて、川座敷や離れが建てられた[11]。現在も残る離れでは、龍門亭が大正13年(1924年)、秋錦亭が昭和3年(1928年)、錫福館が昭和8年(1944年)に建てられている[8]。 昭和20年(1945年)9月、枕崎台風が宮島を襲い紅葉谷川で土石流が発生、岩惣も被災し川座敷が流出した[8]。岩惣は自力で復旧している[8]。その後に紅葉谷川の復旧工事が進められ、紅葉谷川庭園砂防施設が完成した[8]。 昭和22年(1947年)12月5日、昭和天皇が宮島を訪問(昭和天皇の戦後巡幸)。岩惣が宿泊所にあてられた[13]。 平成14年(2002年)、明治時代から使用していた井戸を調べた結果、地下5mからラドンを含む良質の源泉が見つかった[2]。源泉周辺は昔、若宮ヶ原と呼ばれていたことから若宮温泉と名が付けられた[2]。 宮島を訪れた各国皇族、政治家、文化人など様々な歴史に名を残す人物が宿泊している[9][7]。平成20年(2008年)G8議長サミット(第34回主要国首脳会議)のゲスト宿泊地、平成28年(2016年)G7外相会合(第42回先進国首脳会議)の会食会議場に用いられた[14]。また、令和5年(2023年)G7広島サミット(第49回先進国首脳会議)ではセッション3(ワーキング・ディナー)「外交・安全保障」の会談会場となった。[15] 交通脚注
外部リンク |