島津 以久(しまづ もちひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。日向国佐土原藩初代藩主。初名は幸久(ゆきひさ)、次いで同音で征久とした。なお、以久(もちひさ)を「ゆきひさ」と読むのは旧名からきた誤読。
生涯
天文19年(1550年)、薩摩国永吉にて島津忠将の子として生まれた。父忠将が永禄4年(1561年)に戦死した後は、島津家当主の伯父・島津貴久、従兄・義久に養育される。
永禄8年(1565年)、大隅国帖佐郷を与えられ[4]、長じて父の所領であった大隅の要衝清水城に襲封された。
天正元年(1573年)、島津義弘に従って父を戦死させた肝属氏を攻め、翌年肝属氏が降伏した[5]。
天正6年(1578年)11月、日向国高城にて大友勢との戦いの時、以久は自ら敵陣に駆け入って奮戦し、これが切っ掛けになって島津勢が勝利したので、以久が第一の軍功として認められた。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州の役に島津氏が敗北すると領地の再編があり、琉球貿易の独占を目指した義久は、種子島氏を薩摩の知覧に移した。これに伴って、天正19年(1591年)、以久は種子島・屋久島・口永良部島一万石を領することになる[4]。
文禄元年(1592年)、義弘に従って朝鮮へ渡るが、翌年帰国した[5]。
慶長2年(1597年)、清水から種子島へ移った。関ヶ原の戦い直前の慶長4年(1599年)3月5日に大隅・垂水11687石を義弘より賜り、種子島から垂水に移った[5]。
佐土原藩主
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津氏は西軍に付いて島津豊久が戦死している。その後、家康と島津氏の関ヶ原の戦いの戦後交渉の中で、豊久の旧領である日向国那珂郡佐土原3万石が以久に与えられ[4]、慶長8年(1603年)、日向佐土原藩の初代藩主となった。長男・彰久は文禄の役の際に朝鮮で病没していたため、垂水は彰久の子の島津久信(忠仍)に譲った[5]。
慶長13年(1608年)の駿府城普請を助けた功で、賞誉の御書を受ける。
慶長15年(1610年)、丹波国篠山城の普請のために京都に赴き、上洛中に没した。享年61。法名は照譽崇恕高月院。京都四条寺町の大雲院に葬られたが、この時住職に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えする。
長男・彰久は朝鮮の役の際に病没、次男・入来院重時は養子に出ており、跡を三男・忠興が継いだ。以後、長男・彰久の子孫は垂水島津家として、三男・忠興の子孫は佐土原藩主島津家として続いていくことになった。
系譜
- 父母
- 妻子
- 正室:池上 - 北郷時久の長女後に離縁
- 側室:原氏
- 継室/側室:松木氏
- 側室:岩本氏
脚注
参考文献
島津氏 佐土原藩初代藩主 (1603年 - 1610年) |
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- 以久1603-1610
- 忠興1610-1637
- 久雄1637-1663
- 忠高1663-1676
- 久寿1676-1690
- 惟久1690-1723
- 忠雅1723-1753
- 久柄1753-1785
- 忠持1785-1816
- 忠徹1816-1839
- 忠寛1839-1871
- 廃藩置県
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