愚管抄『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。北畠親房の『神皇正統記』と双璧を為す、中世日本で最も重要な歴史書と評される。愚管とは私見の謙譲語。 著者明治時代までは著者は不明だった。 1921年に三浦周行は、青蓮院にある慈円の複数の書簡が、愚管抄の内容と一致することを確認し、著者は慈円と確定した [1]。 概略初代・神武天皇から第84代・順徳天皇までの歴史を、貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、末法思想と「道理」の理念とに基づいて、仮名文で述べたもの。慈円は朝廷側の一員であるが、源頼朝の政治を道理にかなっていると評価している。また、慈円自身の父である藤原忠通が父(慈円にとっては祖父)藤原忠実と不仲であった事を暗に批判したり、同母兄弟である九条家流を持ち上げて異母兄弟である近衛家流を非難するなど、摂関家の一員として慈円本人の複雑な事情を垣間見る事の出来る記事も存在する。 構成『愚管抄』の内容は性格の異なる三部分から成り立っており、巻1から巻2までは神武以来の天皇年代記、巻3から巻6までは道理の推移を中心とする歴史叙述、そして巻7は道理についての総括となっている。鈴木正道によると当初巻3から書き始められ、最後に天皇年代記が書き継がれたとする。巻7に至り、一切の法は道理であり、其の道理に基づいて世の直し方の方法を論述している。 主な参考史料
保元物語、平治物語は類似記事は多いが、史料として使われたかはあきらかでない。 想定読者三浦の研究[1]以来、承久の乱を防止するための、後鳥羽上皇周囲への諫言書であるという意見が多かった。近年、兄九条兼実のひ孫にあたる皇太子(のちの仲恭天皇)と将軍頼経への教育目的の書であるという意見が出ている[4]。 代表的な写本児島の論文[5]も参照。
版本
愚管抄独自の記載の例保元の乱以後には、証言者の名もあげた独自記事が多く[7] [注 5] 、史料的価値がある。 頼朝死後の鎌倉の動静、頼家の最期、実朝暗殺、承久の乱前夜など、『吾妻鏡』にもない記事がある。 源頼家の最期
『吾妻鏡』には伊豆からの飛脚の伝聞として「左金吾禅門(頼家)於当国修禅寺薨給之由」としか書かれていない。 参考文献
脚注注釈出典
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