戦闘機軍団戦闘機軍団(せんとうきぐんだん、英:RAF Fighter Command)とは、戦闘機、爆撃機、沿岸哨戒機の3種の異なる航空兵力をそれぞれ専門的に指揮統制するため第二次世界大戦直前に設けられた部隊編成であり、イギリス空軍の三本柱の一つである。1940年夏にはドイツ空軍の猛攻撃に耐え、イギリス上空の制空権を堅持し、ドイツ軍のイギリス本土上陸作戦延期、そして実質上の中止に追い込んだ誉高き部隊である。 沿革1926年5月20日、訓練軍団 (Training Command) に戦闘機軍団の前身である数個戦闘機中隊から成る一戦闘機群が創設された。同年6月1日、イギリス防空部隊 (Air Defence of Great Britain) に移管、1932年、軍団 (Command) レベルに格上げされ、1936年5月1日、イギリス空軍戦闘機軍団 (RAF Fighter Command) と改名された。1968年、爆撃機軍団と統合され、打撃軍団 (RAF Strike Command) となるまで存続した。 英語の Fighter Command の Command とはRAF Fighter Command は「戦闘機軍団」という訳語がよく使われているが、英語の Command とは、政府に対して責任を有する、例えば当時の首相ウィンストン・チャーチルにも物申すことのできる国軍の指導的立場にあり、単独で決裁する権限を有する高位の軍人が指揮する部隊を指す。 イギリス全土の防空を任務とする戦闘機軍団の構成司令官空軍大将ヒュー・ダウディング卿 (Hugh Dowding) はロンドン郊外のスタンモア (Stanmore) のベントリー修道院 (RAF Bently Priory) に司令部を置き、イギリス各地に展開する約50個の戦闘機中隊(以下中隊と略する)を指揮、バトル・オブ・ブリテンを勝ち抜いた。
戦闘機中隊の総数は、ハリケーンが31個中隊、スピットファイアは20個中隊、ブレンハイムは6個中隊、デファイアントは2個中隊、グラジエータは半中隊の合計59.5個中隊であった(1940年9月7日現在)。各中隊の配備機数は12機が基本であった。 この他、阻塞気球部隊、高射砲部隊も戦闘機軍団司令ヒュー・ダウディング空軍大将の運用に任されていた。 ロンドンを救った第11戦闘機群ロンドンをドイツ空軍から護ったのがアックスブリッジ (Uxbridge) に戦闘指揮所を設けるキース・パーク (Keith Park) 空軍少将率いる第11戦闘機群である。ロンドン周辺空域を7個のセクターに分け、各セクター毎に配置された中隊は担当セクターから敵機を排除することを任務とした。第11戦闘機群は以下の中隊から構成される[1]。
戦闘機パイロットの養成と補充レン・デイトンは著書で次のように記述している。
また、同書の中である予備空軍パイロットの言として次のように述べている。
当時の戦闘機パイロットには3種類の出身母体があった訳である。まずは正規の空軍士官、それから予備パイロットとは、1926年来、存在する地方自治体が費用負担する予備空軍(州兵のようなもの)出身者を指し、第11戦闘機群のなかで地名を冠する中隊がそれに該当する。三つ目の義勇パイロットとは、1936年に定められた志願制度で軍籍にいない18歳から25歳までの成年男子に民間飛行学校の施設・器材を利用して航空機操縦技術を授けるもので、費用は空軍が負担した。イギリス空軍一のエースパイロットであるジェームス・エドガー・ジョンソン (James E. Johnson) 大佐は、義勇パイロットの一人であったことを著書に次のように記している。
この他、外国人助っ人部隊として、第11戦闘機群には「カナダ第1中隊」がいた。これはカナダの正規空軍の第一中隊そのものであり、「ポーランド第303中隊」とは亡命ポーランド人航空兵から編成された戦闘機中隊である。イギリス空軍戦闘機軍団は消耗品であるパイロットをこのようにあらゆる方法をもって養成し、補充した。 出典
参考文献
関連項目
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