抗日戦争戦区抗日戦争戦区(こうにちせんそうせんく)は1937年盧溝橋事件の勃発後の戦争情勢に対応するため、中華民国国民政府が中国国内を計画的に戦区に分画したものである。国民革命軍を主体として担当させたこの戦区の最初の所轄範囲は、長城以南とし、山西省、河北省、山東省、江蘇省を主とし、以後戦争の実際の状況と日本軍の占領区域を考慮して、1938年、1938年及び1944年の3次にわたり相当大規模な修正が行なわれた。この戦区の分画は主に陸軍の作戦を主とするものであった。 概要戦略と兵力から1937年の戦区分画は、第3戦区での南京、上海、杭州の防衛に重心を置いたが、3か月の期間に達する第2次上海事変が発生した。1938年の戦区分画は、華中地区の第4戦区、第5戦区、第6戦区を主として「持久抗戦、武漢を強固な核心とする」というもので、戦略目的が「東の津浦を保ち、西の道清を守る」にあるとし、主要な整備編成が行なわれた。別に政治組織では、国民政府軍事委員会を戦時政府の実質的統治機構とし、国軍を統率する委員長が国民政府主席に代わり中国を実際に領導する「軍事委員会組織大綱」方式により、武漢国民政府の統治組織に修正が行なわれた。 1938年11月中旬、中国軍が臨時首都武漢で組織した武漢防衛戦(中国側では「武漢保衛戦」といい、日本側では武漢作戦という)で敗れ、加えて華南の戦場の重要拠点広州もまた極めて危険となり、ここに至って中華民国政府は重慶に再度遷都することとなった。この戦略の変更が度重なり、兵士の損耗が多くなったため、戦区は同年年末から翌年初めに大幅に変更された。戦区の変更と同様に、日中戦争第1期の第2及び第3段階も正式に終わり、中国の情勢もまた重慶を根拠地とする日中戦争の第2期に入った。 1939年から1943年、戦争の形態と趨勢は固定し、戦区は小規模な変更を除いて、大きな変化はなかった。1944年中国陸軍総司令部が成立し、これにより再度戦区に変更があった。中国国内の戦区全体のほかビルマ(現ミャンマー)及びベトナムで、さらに第1、第2及び第3方面軍が増加した。1945年の日中戦争末期に、反攻及び9月の勝利後の降伏受諾準備のため、戦区は拡充されて12個戦区となり方面軍が設置された。触れておかなければならないことは、日本軍の投降接受及び捕虜送還を主目的として最後の戦区分画が行なわれたのであるが、ソ連赤軍の東北等への進出の影響を受け、受降区あるいは戦区は長城以北には設置されなかったのである。 沿革「戦区」の編成は国民政府軍事委員会がもともと抗日軍事作戦のために配置したもので、抗戦直前には5個戦区が設置され、1945年には12個戦区に増加した。いくつかの戦区を各地の国民政府軍事委員会委員長行営(行営)の管轄下に置いて作戦指導を受けさせることもあった。 日中戦争の時期に、国民政府は国民政府軍事委員会を最高統帥部とし、蔣介石が陸海空軍の大元帥となり、全中国の陸、海、空軍の統一指揮をとった。行政院に所属する軍政部、海軍部は軍事委員会の兼管に属した。 1945年後半には、各戦区は次々に廃止されるか改編された。 1937年8月20日、国民政府軍事委員会は戦区及び戦闘序列を公布し、5個戦区が成立した。
1938年2月、軍事委員会は再度抗日戦争戦区を新しく分画した。
1938年11月軍令部は南岳に軍事会議を召集した。会議で広州、重慶、西安の各行営を廃止し、軍事委員会直属の戦地党政委員会を増設し、戦局の変化に対応して戦区の調整を進めた。
南北の戦区の距離が数千里にもなり、統一指揮が難しいため、1938年12月に軍事委員会は桂林行営、天水行営を設立し、西南、西北の各戦区の作戦指揮を分任した。
1945年1月、軍事委員会は再度戦区及び戦闘序列の調整をし、第4戦区、魯蘇戦区を廃止し、第10戦区(1945年10月に衢州綏靖公署に改正され、1949年1月18日には福州綏靖公署に改正された)を復活設置し、漢中行営(すぐ後に華北剿匪総司令部となった)、贛州行轅を増設した。 日中戦争(抗日戦争)勝利前後に、重慶国民政府は軍事上の一連の緊急措置をとった。その主要なものは日本軍占領地区の接収を中国共産党と対抗するための準備であった。
戦区列表
参考文献
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