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文壇(ぶんだん)とは、作家、文芸評論家、雑誌編集長、出版社の編集者など文学・文筆活動を取り巻く人たちのつながりと付き合いの世界のこと。
文士という言葉が通用した時代には、頻繁に使われた言葉。文壇バーなどというものもあった。こうした作家たちの付き合いで、年一回、親睦を兼ねて、出版社の肝いりで「文士劇」なるものも上演された。
類語である楽壇(音楽業界)、画壇(美術業界)が、ポピュラーミュージック、流行歌や商業美術、マンガを含まないニュアンスで用いられることが多いのに対し、文壇という言葉には大衆文学を排除する性格はほとんどない。
文壇の起こり
文壇が成立したのは、一般に明治20年代に尾崎紅葉を棟梁とする硯友社に始まるとされている。尾崎紅葉という有能な「親方」が中心となり、仲間の作家を集め、将来のある「弟子」を養ったことで、交友関係、師弟関係、恩顧関係、取引関係による閉鎖的なギルド組織が形成されることとなった。文学的主張や思想を同じくはしていないが、漠然とした文学共同体を作り、内部的に統制して結束を固め、ジャーナリズムが発達するとこれと結び、職業上の利益と独立とを擁護した[1]。
尾崎と同時期に活躍した作家の内田魯庵は、これを裏付けるように以下の文章を残している。
当時文壇は全く旧作家に飽いて新作家を迎うるに鋭意していたから、多士済々たる硯友社は忽ち章魚の足のように八方に勢力を伸ばし、新聞社に雑誌社に出版人にそれぞれ多少の関係を附けざるはなかった。その上に固く結束して互に相援引し、応援するにも敵対するにも一斉に起って進退緩急の行動を侶にした。歩武の整然として訓練の能く行届いたは有繋に紅葉の統率の才の尋常でなかった事が解る。硯友社はこの全体の力で常に文壇に衝ったから、一時硯友社はあたかも政友会が政界に跋扈したように文壇を壟断して、操觚者も出版者も新聞雑誌社も硯友社に拠らざれば文壇の仕事は何一つ出来ないような形勢となった。当時の硯友社は実に政友会であって紅葉の手腕は原敬以上であった。 — 内田魯庵、硯友社の勃興と道程
脚注
- ^ 坪内祐三「文壇の成立と崩壊」『近代日本文化論3 ハイカルチャー』岩波書店、2000年。ISBN 4-00-026333-1。
関連項目