斉 (楚漢戦争)斉(せい)は、秦朝末期から前漢初期に現在の中国山東省一帯に存在した国家。紀元前209年 - 紀元前202年。戦国時代の田斉の支配領域であった、秦末の斉郡・済北郡・膠東郡・琅邪郡の4郡、70余県をその版図とした。 概要戦国時代の斉は秦始皇帝26年(紀元前221年)、最後の斉王建の時に秦の六国制覇の過程で滅亡した。その後、始皇帝の死を機に陳勝・呉広の乱が勃発(秦二世元年・紀元前209年)、中国各地で対秦蜂起の動きが活発化する。田斉の公族出身の田儋は故郷の斉郡狄県に挙兵、斉地に割拠し斉王を称し、都城を臨淄(現在の山東省淄博市臨淄区)に置いた。田儋は楚と討秦の主導権をめぐって争う姿勢をみせている。秦将章邯の反撃が始まると、自ら斉軍を率いて魏を救援するが魏地の臨済にて戦死した。 田儋の死後、その従弟・田栄が政変を制し斉の主導権をにぎる。田儋の子田巿を擁立、自らは宰相となる。しかし楚との関係は悪化する。項梁・宋義の死を経て楚軍の総帥となった項羽に至って、その反目は決定的になる。田栄は項羽には協力せず、斉の支配に注力する。項羽はやがて楚軍と諸侯の軍を率い、秦を滅亡させた。項羽主導のもと、諸侯との間で論功行賞を行い諸王を封建する。漢王元年(紀元前206年)2月、項羽は斉を三分し、田栄から離反した田氏一族の田都を斉王に、同じく楚に従った田建の孫・田安を済北王に封じた。斉王田巿は膠東王に遷される。斉の実権をにぎる田栄に封王の通知はなかった。 田栄は田巿を臨淄に留める一方、田都を撃退して楚に追放した。しかし、田巿は項羽を恐れて膠東(即墨)に向かおうとする。これに怒った田栄は田巿を殺害し、自ら斉王となり項羽の覇権に挑む。田栄は彭越を懐柔し味方につけ、残る田安をともに討ち再び斉を統一する。さらに田栄と同様に項羽に不満を持つ陳余と結び、その趙地での挙兵を支援する。彭越も楚地を攻めはじめる。漢王2年(紀元前205年)、激怒した項羽は自ら斉討伐に向かう。田栄は城陽(莒県)[1]で交戦するが項羽に敗れた。田栄は陳余を頼り趙地に逃れる途中、平原津で庶民に殺害された。 項羽の征斉に対し、斉は田栄の弟・田横が中心となって抵抗を続けた。項羽は沂水沿いに進軍し斉の諸城を破壊し焼き、営陵(北海)まで進出。また、多数の斉の捕虜を生き埋めにして殺害した。斉楚の攻防の最中、漢王劉邦が中原に進出、諸侯の兵を率いて楚の都城・彭城に入城する。項羽は斉の攻略をあきらめ反転し、劉邦と戦う方針に変えた。斉地を守り抜いた田横は田栄の子・田広を斉王として擁立し、自らは宰相となって実権を掌握した。 その後、漢王3年(紀元前204年)秋、漢王劉邦は酈食其を使者とし斉との同盟を策する。田横はこれを承諾する。しかし漢軍の上将韓信は、その交渉中に趙地から黄河を渡り征斉を開始した。斉王田広は報復として酈食其を釜茹での刑に処するが、韓信軍攻勢のまえに斉軍は敗北を重ねる。窮余の策として、斉は楚軍の救援を仰ぐ。項羽もまた漢軍の伸張に危機感を覚え、龍且を大将、周蘭を副将とする大軍を送るが、これも濰水の戦いで韓信軍に破られる。田横・田広の斉は崩壊、漢王4年(紀元前203年)2月、韓信は劉邦によって斉王に封じられた。 歴代君主
斉の諸将
参照
系図脚注
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