李嗣源
李 嗣源(り しげん)は、五代後唐の第2代皇帝。廟号は明宗。前帝の不慮の死により皇帝に即位した。この時代の皇帝では、李嗣源は後周の世宗(柴栄)に次いで高い評価があり、五代十国時代の中では珍しい安定期を築き上げた名君。但し後継者の失敗により李嗣源の死後に後唐が滅ぶ遠因も作り上げた。 生涯出生李嗣源の出自ははっきりしないが、少なくとも漢民族ではなく、いわゆる応州出身の「雑胡」で、父は李国昌(朱邪赤心、李克用の父)の雁門部将の李霓である[1]。 李嗣源は若いころから武勇に優れて信望厚く、李克用の仮子(養子分)となる。民間伝承や小説『残唐五代史演義』の中では、李嗣源は配下の「十三太保」の一人として描かれた。当時の軍閥では有望な部下を義子として処遇することが広く行われており、李嗣源もまたそのような一人であった。 李嗣源は契丹討伐や後梁討滅などにおいて活躍し、頭角をあらわした。 やがて、李克用の長男の荘宗(李存勗)が後唐の初代皇帝でありながら、酒に溺れて次第に政治を顧みなくなると、各地で国に対する反乱が勃発するようになった。 そこで、李嗣源はその鎮圧に向かうように皇帝から命じられたが、その後、配下の軍から次の皇帝に推されてしまい、李嗣源は荘宗に反逆した。また、荘宗は興教門の変で禁軍によって殺害された。さらに反撃した荘宗の皇太子の魏王李継岌の軍勢を渭水でこれを打ち破り、滅ぼした。こうして、李嗣源は周囲から推戴されて後唐の第2代皇帝となった。 即位天成元年(926年)、2代皇帝に即位した明宗(李嗣源)は、宰相として馮道を登用し、国の内政に注力した。宦官の勢力を抑制し、支配地に大規模な検地を行なって税制の整備を行なった。 また、李嗣源自身も奢侈を禁じて倹約に努め、「三司使」を創設するなど、内政に多大な成果を挙げた。 また代州出身の異民族として漢民族に君臨することを悩み、夜な夜な香を炊いて天を祭った。 この時、李嗣源は 「私は異民族出身なので天下を整えることが出来ません。天よ!願わくば早く聖人を生み、天下の民を助けて下さい!」 その李嗣源の人柄と謙虚さゆえに後唐の国内は安定して、明宗(李嗣源)は五代の中でも屈指の名君とまで讃えられている。 しかし、軍部に推戴されて皇帝に即位した経緯から、李嗣源は軍部を優遇して軍部たちに大きな権力を与えてしまった。その結果、軍部の驕慢と専横を招き、長興4年(933年)に明宗(李嗣源)が崩御してわずか3年で、後唐が滅ぶ遠因となるのである。 宗室后妃
男子女子養子甥登場作品
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