村の鍛冶屋概要作詞者・作曲者ともに不詳。初出は1912年(大正元年)12月「尋常小学唱歌(四)」。歌詞が当初のものから時代により書き換えられながら、長く全国の小学校で愛唱されてきた。 だが昭和30年代頃から農林業が機械化するにつれ野道具の需要が激減し、野鍛冶は成り立たなくなって次第に各地の農村から消えていく。鍛冶屋が作業場で槌音を立てて働く光景が、児童には想像が難しくなった昭和52年には文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除された。以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅した。 道具屋で販売する刃物を製造する工場はあり、町の鍛冶屋は非常に少なくなっているが日本各地に残っており、地元の農家も支えている。 歌詞以下がオリジナルの歌詞である。 一、 歌詞の由来大正2年6月9日発行の教師用の説明書である吉丸一昌閲『歌詞評釈』に以下の説明がある。
「讀本」とは、1903(明治36) 年4月、小学校令の改正により定められた小学校用の国定教科書である「尋常小学讀本」を指す。「かぢや」とは、以下の記事である。
歌詞の変遷農具など野道具や山道具を製作する職人を「野鍛冶」と呼ぶ。この歌の主人公である老職人も、歴史に名が残るような刀鍛冶ではなく、地域の農民とともに生きる無名の野鍛冶である。しかし彼は武勇のための兵器ではなく、民衆が平和時に生産に励むための農器具を鍛える自己の職業をかえって大いに誇りとし、勤勉に日々の労働に没頭している光景が初出時におけるこの唱歌の描く情景であった。 だが1942年(昭和17年)3月刊の「初等科音楽(二)」に収録の際には、平和を歌う三番以降の歌詞の後半が戦時下の国策に不適当として教科書から削除され、戦後も復活することがなかった。また、一番の「しばしもやまずに」が「休まず」へ、「飛び散る火の花」が「飛び散る火花よ」へ、二番の「あるじは名高きいつこく老爺」が「あるじは名高いいっこく者よ」などと変更された(「いっこくもの:一刻者」は「一徹者」と同義。頑固おやじの意)。 そして戦後の昭和22年には文語調が子供には難しい[1]との理由から、題名が「村のかじや」と平仮名表記にされるとともに、「刃物」が「鋤鍬(すきくわ)」と変更されるなどさらに手が加えられ、最終的な歌詞は以下のようになった。用語を平易なものに書き換え、特に歌の後半部分が切り落とされたことで、本来の歌の核心であった平和賛歌・労働賛歌としての性格が失われた改変過程には異論もある。
一、
二、
一、
二、
各地の歌碑、その他
脚注
参考文献
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