殷海光
殷 海光(いん かいこう[1]、1919年12月5日[2] - 1969年9月16日)は、台湾の哲学者[3]・ジャーナリスト[2]。胡適や雷震と並ぶ[4]、戒厳令下台湾における自由主義の理論的指導者[1][4]。蒋介石政権と対立した[2][3]。 生涯渡台前1919年、湖北省黄岡県(現在の黄岡市)に生まれる[2]。父はキリスト教宣教師であり、没落した儒教知識人の家系にあった[2]。 1936年、武漢の高校を卒業後、北平(北京)で金岳霖や熊十力の門下に入る[2]。1937年、西南聯合大学(抗日戦争中の清華大学の疎開大学)に入学[2]。のち大学院(清華大学哲学研究所)に進学。哲学と論理学を専攻する[2]。1944年、学徒志願軍的な十万青年十万軍・中国遠征軍に参加し、英領ビルマのミッチーナーで運輸部隊として従軍[2]。1945年、復員、修士号取得[2]。 1945年、重慶で国民党の機関紙『中央日報』の記者となり、徐復観や蒋介石の面識を得る[2]。1947年より金陵大学講師のち准教授を兼任[2]。 渡台後1949年、遷台中の台湾に移住[2]。同年より、台湾大学哲学科(台湾大学哲学系)で教職に就く[2][3]。同時に『中央日報』から離れ、雷震らが創刊した自由主義誌『自由中国』の主筆となる[2][3]。 『自由中国』では蒋介石政権批判を展開し、政府の監視を受けるようになる[2][3]。1960年、雷震が反乱煽動罪で逮捕され『自由中国』が停刊[2](台湾の白色テロ)。その後も政権批判を続けるが、1966年、政府の圧力により台湾大学から免職される[2]。 1969年、経済的・精神的疲弊のなか、胃癌により逝去[2]。 思想・著作ハイエク、ラッセル、ポパーらの影響のもと、科学的方法、個人主義、民主主義、自由主義などを論じた[1][6]。北宋の范仲淹の言葉「寧鳴而死、不黙而生」(沈黙して生きるより、発言して死ぬ方がましだ[7])をモットーに蒋介石政権を批判した。 著作の大半は《殷海光全集》(全22冊、2009-2013年、台大出版中心)に収録されている[4]。主著に《中國文化的展望》《海耶克和他的思想》《思想與方法》《邏輯新引》《怎麼判別是非》[5]、訳書にハイエク『隷属への道』《到奴役之路》[8]などがある。 《中國文化的展望》(1966年)では、中国文化と西洋文化の比較[6]、中体西用や五四新文化運動の反省[6]、自由主義など思想面での西洋化・近代化の必要性[6]、知識人論[9][10]などを扱っている。 没後殷海光の弟子に、李敖・許登源・陳鼓応らがいる[11]。殷海光は台湾大学を免職されたが、その反骨精神は同大に引き継がれた[3]。1970年代には、13人が免職される台湾大学哲学系事件が起きた[3]。 台湾民主化後の2000年前後から、徐々に再評価や研究が進んでいる[3][9]。 殷海光故居台北市温州街に史跡「殷海光故居」がある[7]。管理者は財団法人殷海光基金会[12]。 故居は日本家屋である[7]。これは温州街が日本統治時代に教員宿舎街だったことに由来する[7]。 2003年、市の史跡に指定[7]。2008年から一般公開[13]。2016年ごろから、様々なイベントの会場にもなっている[13]。 参考文献
関連文献
関連項目脚注
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