永山 武四郎(ながやま たけしろう、天保8年4月24日(1837年5月28日) - 明治37年(1904年)5月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。筑摩県権令・新潟県令等を務めた永山盛輝男爵は兄。
経歴
天保8年(1837年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現在の鹿児島市薬師二丁目)[1]の鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれた武四郎は、同じく鹿児島藩士の永山喜八郎の養子となる。戊辰戦争に従軍し、維新後の明治4年(1871年)7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
明治5年(1872年)9月から開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。明治8年(1875年)3月に陸軍准少佐・開拓使七等出仕、屯田事務局付。明治10年(1877年)4月に屯田兵第1大隊長に就任し堀基大佐の指揮のもと、西南戦争に従軍する。戦争から帰還した後は開拓少書記官・屯田事務局副長・屯田事務局長と累進し、階級は屯田兵大佐となる。一時陸軍省出仕を経験し明治18年(1885年)5月には陸軍少将・屯田兵副本部長となり、1年間の欧米出張をへて明治21年(1888年)6月から北海道庁長官を兼ねる。北海道庁長官は岩村通俊の後を受けたもので、永山は第2代である。その間明治22年(1889年)8月には屯田兵司令官に就任し、北海道庁長官退任後の明治28年(1895年)2月には臨時第7師団司令官となる。同年12月4日、男爵に叙される。臨時第7師団は組織改編を経て明治29年(1896年)5月には第7師団となり、武四郎が師団長に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し明治33年(1900年)4月まで務めた。軍を退役した後は明治36年(1903年)11月20日から貴族院勅選議員を務めるが[2]、明治37年(1904年)議会出席の為上京中に倒れ、5月27日薨去する。死を悟った武四郎は親しい者たちに「我が躯は北海道に埋めよ。必ずやかの地をロシアから守らん」と述べたという。この遺言により北海道札幌市豊平墓地に葬られた。後に里塚霊園に改葬される。
現役時代は屯田兵を掌握し軍部内では一大勢力だったが、本人に政治的野心はなく、中央の政治抗争のためにその力を行使することはなかった。終生北海道を案じ、その身を捧げた武人であった。
上川離宮
北海道庁長官となった武四郎は北海道でも特に内陸部の開発に着目した。就任前には先代長官の岩村通俊と共に上川原野を視察した。ここに屯田兵村を設置するが、この村は明治23年(1890年)永山村と名前を変える。この名は武四郎に由来するものである。
さて、本州からの移住を促進する為に上川の地に東京・京都に並ぶ「北京」を作る構想を先代岩村から受け継いだ武四郎は、政府に働き掛ける。政府からは好意見も聞こえたが、法制局の反対にあいこの計画は退けられる。かわって上川に離宮を設ける案が浮上する。予定地は現在の旭川市神楽岡。明治天皇の裁可を得たこの計画は明治22年(1889年)に宮内省をへて閣議決定される。離宮が出来るとなると旭川の評価は高まり、神楽岡の一帯を御料地に指定し明治23年(1890年)には前述の永山村に加え旭川村・神居村が開村、明治25年(1892年)には永山神社が創建される。入植者は一気に増え開発が進むが、札幌・小樽方面の反発と日清戦争の始まりによって計画が頓挫してしまう。
上川神社境内には武四郎の歌碑と、記念碑が建立され今に伝わる。
逸話
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
脚注
- ^ “永山武四郎誕生地”. 鹿児島市. 2021年11月3日閲覧。
- ^ 『官報』第6118号、明治36年11月21日。
- ^ 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』鹿児島県歴史資料センター黎明館編
- ^ 『官報』第672号「叙任」1885年9月25日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。
- ^ 『官報』第6236号「叙任及辞令」1904年4月18日。
- ^ 『官報』第531号「賞勲叙任」1885年4月13日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
- ^ 『官報』第5050号「叙任及辞令」1900年5月5日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』下巻、255-256頁。
- ^ 「旭川屯田兵物語」『銀座一丁目新聞』
参考文献
関連項目
外部リンク