河野 通之(かわの みちゆき、生没年不詳)は、室町時代前期の守護大名。河野通堯の子、通元の父。幼名は鬼王丸、通称は六郎。官途名は対馬守。
応永元年(1394年)に兄の通義が26歳で急死したため、伊予国守護職を継承する。その時、通義の室は懐妊しており、誕生した子が男子であった場合には16歳になったらその子に家督を譲ることを条件としていた。応永の乱では堺に立て籠もる大内義弘を攻めて功を上げた。通義の室が産んだ子は男子であり、その子・通久が16歳になった応永16年(1409年)に通之は家督を通久に譲って隠居した。だが、通之の実子である通元はこれに納得せず、通之が没すると、予州家(通元およびその子孫)は河野氏の家督を巡って宗家と争うようになった。
参考文献
- 影浦勉「河野氏」(今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(上)』(新人物往来社、1988年))
伊予河野氏第31代当主(1394年 - 1406年) |
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