法家法家(ほうか)は、中国戦国時代を中心とする諸子百家の一派。徳治主義を説く儒家と異なり、法治主義を説いた。主な書物に『韓非子』『管子』『商君書』がある。 戦国時代法家とは、儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や、韓の王族の韓非がよく知られている。 商鞅は戦国の七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。 韓非は結果主義・能力主義、信賞必罰主義、職分厳守と法と術(いわば臣下のコントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説いた。また、韓非は矛盾や守株待兔といった説話を用いて儒家を批判したことでも知られる。 秦代中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用し、法家思想による統治を実施した。しかしながら、秦において法が厳格すぎたがゆえのエピソードとして以下のものがある。
20世紀以降、秦の法制にまつわる新出文献が複数発見された。例えば、1975年の『睡虎地秦簡』、2002年の『里耶秦簡』などがある。 漢代以降法家の思想は、秦が滅びた後の漢王朝や歴代王朝にも、表立っては掲げないものの受け継がれ、「中国法制史」として結実した。 前漢の高祖劉邦は当初は「法三章」として法を簡素化していたが、国家運営に支障が出たために秦の法の中から時勢にかなったものを選ぶ形で「九章律」を定めた。 また前漢には、法家と道家が混ざったような「黄老思想」が流行した。李斯の孫弟子にあたる賈誼の著作には、儒家思想(とりわけ『荀子』の礼思想)と混ざった形での法家思想が説かれている[1]。 法の字義「法」字の字義について、中国法学者の宇田川幸則は以下のように説明している。
主な法家の人物春秋時代の管仲・子産・范宣子・鄧析、戦国初期の李悝・呉起を法家に含める場合もある[3]。 脚注
外部リンク
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