Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

浅野長治

 
浅野 長治
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年3月26日1614年5月4日
死没 延宝3年1月19日1675年2月13日
別名 又六郎(通称)
戒名 俊岳了英鳳源院
墓所 広島県三次市鳳源寺比熊山城跡山麓
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
備後三次藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長晟:お岩(日下秀柴の娘)
兄弟 長治光晟
正室浅野長重の娘
瑤泉院
養子長尚長照
テンプレートを表示

浅野 長治(あさの ながはる)は、江戸時代前期の大名通称又六郎(またろくろう)。備後国三次藩の初代藩主官位従五位下因幡守

略歴

広島藩の初代藩主・浅野長晟庶長子として山城国にて誕生。元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下・因幡守に叙任された。

寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。寛永10年(1633年)、高家畠山義真より『上杉流之軍配免許』「九重巻号令幕之巻」を相伝する[1]

男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、3男の長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩浅野長矩の正室・阿久里がいる。

延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。

系譜

脚注

  1. ^ 三次藩文書『鳳源君御伝記』

関連項目

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya