物部神社 (柏崎市)
物部神社(もののべじんじゃ)は、新潟県柏崎市西山町二田(ふただ)にある神社。式内社、越後国二宮で、旧社格は県社。社名は「二田物部神社」「二田神社」とも。 祭神主祭神
配祀神 『越後野志』では祭神をウマシマジ(宇摩志麻治命)とするが、『特選神名牒』ではこれを付会として二田天物部命を妥当とする[2]。 歴史創建・伝承社伝(江戸時代の『二田宮伝記』)によれば、祭神・二田天物部命は天香山命(越後国一宮の彌彦神社祭神)に従って高志国(越国)に来臨したという[2]。そして石地(現・柏崎市西山町石地)で天香語山命と別れたのち、多岐佐加の二田を献上する者がいたので、その地に居を定めて里を「二田」と称したと伝える[2]。また、二田天物部命は二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたという[2]。 また社伝では、当社の社地は数回の移転を繰り返したという。それぞれの遷座は次の通り[2]。
亀岡山の旧跡は明徳年間(1390年-1393年)の古図に見え、この図には山頂の奥宮に至るまでに大小多数の堂宇のあった様子が記されている[2]。 概史社伝では、延暦14年(795年)に坂上田村麻呂が祈願し、三島郡を神領に定めたという[1]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、越後国三島郡に「物部神社」と記載されて式内社に列している[1]。その後、院政期の文書では当社は「二田社」として見え、知行国主が二田社神主の補任権を有していた様子が記されている[4]。 その後の動向は不明で、中世に入り『神道集』に「二宮両田大菩薩申、亦土生国大明神名」と見える[4]。この「両田」とは「二田」であり、この記述から当社は越後国の二宮であったとされる[4]。当社が二宮に列していたことは、16世紀以降の起請文に「弥彦大明神・二田大明神」として、一宮の彌彦神社(西蒲原郡弥彦村)と並び称された様子にも見える[4]。なお『神道集』の「亦土生国大明神名」の記述に関連して、前述のように当社の祭神は土生田山に葬られたという伝承がある[4]。 大永6年(1526年)には室町幕府第12代将軍・足利義晴から三島郡から3,500貫を神領として授けられたが、天正年間(1573年-1592年)にこれらの神領は没収された[1]。天正10年(1582年)には当地を治めた上杉景勝から周辺6村から計1,070石の寄進がなされたが、慶長3年(1598年)に景勝が会津に移ったことに伴い衰退した[1]。慶長16年(1611年)には越後に入った松平忠輝から50石の寄進を受け、慶安元年(1648年)には江戸幕府第3代将軍・徳川家光から朱印地は50石に改められた[1]。 明治4年(1871年)に近代社格制度では村社に列したが、大正12年(1923年)に県社に昇格した[2]。明治40年(1907年)には若宮神社・諏訪神社を合祀した[1]。 神職神職は三島家。この三島家は、ニギハヤヒの天降りに従った「五物部」のうちの二田物部の末裔であるという[2]。 境内本殿は三間社流造で、桟瓦葺[5]。室町時代後期の15世紀後期頃の造営と見られている[5]。古くは独立社殿であったが、現在は全面に幣殿が接続しており、向拝は板壁で建て込んでいる[5]。十日町市の来迎寺愛宕堂(1713年建立)と虹梁絵様がよく似ることから、向拝はこの時期の改造と見られている[5]。この本殿は新潟県指定文化財に指定されている[5]。 また、境内には天明義民の碑が建てられている[1]。 祭事また特殊神事として、次の祭がある[2]。
文化財新潟県指定文化財
柏崎市指定文化財なお、「物部神社の納経の唐櫃」が昭和44年9月1日に柏崎市指定有形文化財に指定されていた(現在は新潟県指定有形文化財)。 二田城物部神社背後の滝沢山には「二田城」と称される城跡が残る[2]。この城跡は「二田城跡」として柏崎市の史跡に指定されている。 この城は、当初は物部神社の神官が「長橋城」として築き神領警備に使用したが、後世に上杉家武将の須田長義がこの城に移った際に「刈瀬城」と改めたという[2]。そして子・須田長茂が三ツ山城へ移転したというが、いずれも年代は不詳[2]。以上のほか、元井玄蕃頭が城主であるという伝を載せる文書もある[2]。 現地情報所在地 交通アクセス 脚注原典
出典
参考文献
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