狩野安信狩野 安信(かのう やすのぶ、慶長18年12月1日(1614年1月10日) - 貞享2年9月4日(1685年10月1日))は、江戸時代の狩野派(江戸狩野)の絵師である[1]。通称は四郎次郎、源四郎、右京進、号は永真、牧心斎[1]。狩野孝信の三男で探幽、尚信の弟。妻は狩野長信の娘、子に狩野益信室、狩野常信室、時信、親信。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。 生涯父は狩野孝信、母は佐々成政の娘。探幽・尚信は兄で、姉妹は狩野信政、神足高雲(常庵)に嫁いだ。また狩野寿石は甥(大甥とも)、久隅守景の妻国は姪、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室(御台所)鷹司孝子は母方の従姉に当たる[2]。 幼少期は父に頼まれた狩野興以に2人の兄と共に絵の教育を受けたという[3][4]。 元和9年(1623年)、危篤に陥った従兄で宗家当主の狩野貞信には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信(貞信と安信の大叔父)と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として彼の死後惣領家を嗣ぐこと、次兄尚信が父の家を継ぐことが決められた(長兄探幽は6年前の元和3年(1617年)に別家)。また、長信の娘は安信へ嫁いだ[* 1][7]。 寛永3年(1626年)の二条城障壁画制作で行幸御殿の中の帳台の間を担当し帝鑑図障壁画を描き、序列は幼いことから5位になっている。寛永9年(1632年)の台徳院霊廟装飾の画工に選ばれた時の序列は1位だったが、寛永11年(1634年)の名古屋城上洛殿の障壁画制作に参加せず探幽が制作、寛永13年(1636年)に日光東照宮装飾を担当した狩野派の7人の絵師の中では最下位の7位に下落した[8][9]。理由は不明だが、台徳院霊廟装飾の仕事が不調に終わったため代わって探幽が幕府建築装飾の責任者に選ばれたのではないかとされている[10]。寛永19年(1642年)・明暦元年(1655年)・寛文2年(1662年)の3度に渡る内裏障壁画制作と万治2年(1659年)の江戸城本丸御殿障壁画制作にも参加したが、いずれも探幽の下での活動であり、寛永19年の内裏障壁画制作では後盾になっていた舅長信が探幽に遠ざけられた。制作の画料でも差が付いていて、明暦元年の内裏障壁画制作の画料は探幽が3割増しなのに対し安信は2割増しだった[11][12][13]。 そうした中で正保2年(1645年)に後水尾上皇の依頼で制作した『猿猴図』は、探幽の『白衣観音図』・尚信の『猿猴図』と共に作られた3幅対の合作で、相国寺に寄進され現存している。慶安3年(1650年)に尚信が急死すると探幽と協力することが増え、明暦元年の内裏障壁画制作に当たり、相国寺の別々の塔頭を工房に使用した(探幽は開山堂、安信は鹿苑院)。また制作に際して画料の基準を明確に定めるよう探幽共々幕府の奉行に交渉、明暦3年(1657年)に探幽との連署で絵所奉行永井直清へ出した画料の報告書が現存している[14][15]。朝鮮通信使へ贈る朝鮮国王への献呈屏風(贈朝屏風)も明暦元年の制作では探幽ら一門と共に制作、万治2年に探幽と共に4代将軍徳川家綱に揮毫(席画)を披露する御絵始を務め、以後例年行事として参加した。寛文2年に探幽と同時に僧位を叙され、探幽は法印、安信は法眼に叙された[16]。 一方、探幽や安信と親交があった鳳林承章の日記『隔蓂記』の明暦2年(1656年)3月9日条では、息子の時信を連れて後水尾法皇の御前で揮毫をする名誉を得たことが書かれている[17]。これ以後は時信との合作も作られ、寛文2年以降の作品と推測されるチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵『三十六歌仙画帖』は時信との合作であり4図を制作(安信の款記(署名)に寛文2年に叙された法眼の僧位が記されている)、寛文4年から5年(1664年 - 1665年)制作と推測される松井文庫蔵『百人一首画帖』も時信や一族との合作で、表裏1冊の画帖の表側と時信と一緒に担当、25図を描いた(裏は婿の狩野益信・狩野常信が担当)。この2作は細密・濃彩による江戸狩野の大和絵で表し、先に狩野派が制作した同名の作品の図様を採用しつつも、それに依拠しない安信・時信独自の新機軸も示されている。かたや探幽・益信・常信らとの合作で寛文5年頃制作とされる別の百人一首画帖も確認され、仙台藩伊達氏による旧蔵本が現存している[18]。万治2年の江戸城障壁画制作と寛文2年の内裏障壁画制作でも時信と協力、寛文4年に出雲大社へ時信と共に複数の作品を寄進したことが確認されている[19][20]。 寛文13年(延宝元年・1673年)制作とされる『牛馬図』は一門が安信の還暦祝いで制作したと推測され、36人もの絵師が一幅にそれぞれ牛・馬を描いた双幅の大作となった。安信は探幽と共に上段で牛・馬を描き、上から安信・探幽の近親、表絵師、大名家御用絵師の絵が並び、作風は探幽か安信の様式、どちらとも言えない独自様式の絵が散りばめられた作品である。探幽様式は探幽の息子で安信の甥探信・探雪兄弟と益信・常信ら11人、安信様式は長男時信・次男親信ら13人、独自様式は表絵師や探幽の弟子久隅守景を含む12人に分類されている[21]。 延宝3年(1675年)の内裏障壁画制作では、狩野派の棟梁同然の立場である触頭(頭取)となり、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、前年の延宝2年(1674年)に探幽が亡くなったこともあり、探幽亡き後の鍛冶橋家は弱体化し主導権は安信の中橋家に移り、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。天和2年(1682年)の贈朝屏風も触頭として一門と共に制作を担当した[22]。しかしこの間延宝6年(1678年)に時信に先立たれてしまったため(親信も寛文13年に死去)、孫で時信の子主信を跡取りとし、後事を有力な弟子・狩野昌運に任せて貞享2年(1685年)に亡くなった。享年73[23][24]。 菩提寺は東京都大田区池上の池上本門寺[25]。位牌は妻や子、長信らと合わせられている[25]。 探幽との関係伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『古画備考』所載で昌運が記した「昌運筆記」と、安信の甥に当たる探幽の息子探信の弟子木村探元が記した『三暁庵雑志』では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えばある時、三兄弟が老中から揮毫を描くよう言われた際、探幽が安信に向かって「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせなかった。またある時安信が浅草観音堂天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている(安信が宗家を継いだのは長信と吉信の配慮であり史実ではない)[26][27]。この逸話を取り上げた松木寛は実力よりも血脈が優先する家族制度の矛盾に注目、技量が2人の兄に及ばない安信が宗家当主という立場にあり、実力と格式の対立が狩野派内部に残っていると考え、実質の無い宗家と周囲の人間への苛立ちと怒りが探幽を安信へのいじめに走らせたと推測している[* 2][32]。 しかし、探幽が安信を嫌っていたとも言い切れない逸話もある。安信と探幽は年を経ると合作が増えたり、強い結びつきが出来たり、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。これは慶安3年の尚信の急死で危機感を抱いた探幽が安信と力を合わせて一門を牽引、結束に心して当たっていた可能性があり、探幽は自身の後半生に安信を重要なパートナーとして見出していたと推測されている[33]。安信も探幽も画家の傍ら絵の鑑定をしていたが、安信が一部を探幽に送り鑑定を持ち込んだことも探幽との繋がりを示している[34][35]。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる[36]。 また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられ万治2年に別家・駿河台狩野家を立てた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。この婚姻政策も捉え方が分かれ、松木は探幽への対抗として包囲網形成を図ったと推測、榊原悟は姻戚関係強化(血の団結)で狩野家の存続を図ったと見ている[* 3][38][39]。 そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年に普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、記室(書記)の独立性易と親しくなり、隠元から法を受け同寺の方丈に襖絵を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品がある[40][41]。安信は晩年になっても、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け[42]、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている[43]。 弟子と交友関係弟子は昌運や英一蝶、狩野宗信、松江藩に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。福井藩の御用絵師狩野元昭も弟子に含まれる[44]。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、徳川光圀や黒田綱政、光子内親王、森川許六ら19名が記されている[45]。 大名とは稲葉正則・松平直矩と交際があり、彼等の日記『永代日記』・『松平大和守日記』に探幽ら一門と共に名前が載っている。加賀藩前田氏との繋がりも深く、藩祖前田利家夫人まつ建立の芳春院で小書院を担当、2代藩主前田利常が建立した瑞龍寺の法堂に天井画『草花図』を描いた[46]。高僧との交際も盛んで、隠元と独立の他に江月宗玩の複数の肖像画を描いたことが確認されている[47]。 儒学者で幕府の御用学者林羅山・鵞峰父子とも関わりがあり、『武州州学十二景図巻』は慶安元年(1648年)の羅山の跋文と探幽・尚信・益信との絵で構成された合作で、寛文8年(1668年)には羅山の次男で鵞峰の弟林読耕斎の肖像画を描いた。林家が発案した新画題に絵を描くこともあり、榊原忠次の依頼で三十六歌仙図になぞらえた『詩客歌仙図屏風』・『中華三十六将図』(詩仙図・武仙図)の制作が決まると絵を担当し詩は羅山父子や公家・禅僧が分担、武仙図は正保2年、詩仙図は慶安元年に完成した。出来上がった両作品は武家・公家の間で流行しただけでなく、寛文5年に家綱の命令で新しい武仙図を描き鵞峰の賛を加えた『本朝三十六将図』を制作、絵入り版本を通じて改題・刊行され一般にも広まり、浮世絵の武者絵にも影響を与えた[48][49]。鵞峰が賛を書いた絵も見られ、楠木正成の肖像画『楠公図』、正成と弟の楠木正季・息子の楠木正行を描いた3幅対の『楠正成・正季・正行図』がある[50]。 画論『画道要訣』絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年(1680年)に昌運に筆記させた『画道要訣』である[51]。この中で安信は、優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する[52][53][54][55]。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、昭和4年(1929年)に狩野忠信が筆写した写本が現存する[54]。 安信の作品と評価安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っているが、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の個性や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している[56][57]。筆墨による繊細な表現が重要な水墨画を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない[58]。一方、法眼になった寛文2年前後から単調な線質による力強い表現(安信様式)を用いるようになり、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い[59]。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる[* 4][61]。 安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄2人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の近衛家熙は尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。『槐記』享保13年(1728年)5月4日条で「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」と記し、享保16年(1731年)6月25日条に「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」と記している[62][63]。 昌運も師を擁護する文章を残し、「昌運筆記」で探幽に非難された上記の逸話に続いて、中年期の安信の作品が世間でもてはやされたことを記し、実際に京都で狩野元信・狩野永徳・探幽・尚信の絵を見た感想を見事なものだと書いた上で「安信が描いた物もあるが、噂ほどには劣っていないそうだ」と評価、安信が先祖や兄2人に匹敵することを強調している[26][64]。 蘭方医の杉田玄白も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、医学を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)[65]。 代表作
子女脚注注釈
出典
参考文献書籍
展覧会図録・論文
関連項目 |