申尚澈
申 尚澈(シン・サンチョル、申尙澈、신상철、1924年7月9日 - 2005年9月18日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。創氏改名時の日本名は永田達明。本貫は平山申氏[1]。カトリック教徒[2]。 経歴1924年7月、忠清南道公州に生まれる。京畿高等学校卒業。1945年、陸軍航空士官学校58期卒業。同年7月1日、陸軍少尉任官[3]、ソ連の侵攻に備えて戦闘機のパイロットとして南満洲に駐在した[1]。 1946年2月28日付で軍事英語学校を卒業して少尉に任官(軍番10058番)[4]。第2連隊の創設に参加。 1947年1月、第5連隊大隊長。2月1日、第5連隊副連隊長[5]。3月15日、首都旅団参謀長[6]。 1948年8月8日、第3旅団参謀長[8]。11月3日、第15連隊長[9]。11月25日、軍紀司令部(憲兵)司令官[10][11]。同年の麗水・順天事件発生当時に事件処理を担当し、南朝鮮労働党系列の将校を粛清する粛軍作業にも参加した[1]。 1949年10月、陸軍本部情報局長[12]。 1950年1月15日、第6師団長[6]。6月10日、陸軍本部人事局長[12]。8月21日、第7師団長[5]。10月、白善燁の第1師団と共に平壌を占領し市街行進を行った[1]。 中国人民志願軍の攻勢で、第7師団が包囲されて全滅すると逃亡したため、軍法会議で死刑宣告を受けたが、1951年に空軍に転科して空軍本部作戦局長(大佐)となった[13]。張志良によれば空軍の状況を把握できていなかった[13]。 1951年、アメリカ空軍大学卒業。 1953年、第1訓練飛行団参謀長[5]。同年12月、空軍士官学校校長。 1959年、空軍本部参謀副長。 1960年、国防大学卒業。10月、任少将。 1961年、5・16軍事クーデター直後任国防部政訓局長[1]。 1962年、軍事休戦委員代表。12月、予備役編入後に駐ベトナム大使。 1972年12月、逓信部長官。 1974年、駐スペイン大使。 勲章
出典
参考文献
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