相州炮術調練場(そうしゅうほうじゅつちょうれんじょう)は、現在の神奈川県藤沢市および茅ヶ崎市の海岸にあった、江戸時代の銃術鍛練場。
歴史
- 結果、炮術調練場は延伸するが、当面は訓練を行わないことで、幕府と住民が合意。
- 後に同地は、横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となる。
廃止以降
運営
- 井上左太夫貞高(幕府鉄砲方)と、江川太郎左衛門(当主)と、鉄砲場見廻役(地元住民)で運営した。鉄砲場見廻役は、地元の村々の名主などから任命され、その役目の重要性から苗字帯刀を許されていた。
- 彼らから夫役を命じられたのは三浦郡、鎌倉郡および高座郡の村々で、演習の時期になると役人の宿泊接待、力役労働、警備、伝馬などの夫役を負担させられた。
- 周辺の村々は、通常から戸塚宿、藤沢宿および平塚宿の助郷を命じられ困窮しており、炮術調練場の賦役は大きな負担となっていた。
演習頻度
演習期間
- 7組程度に分かれ、各組が16日から25日間、4月上旬から7月中旬に断続的に行う。
- 江戸から参加する役人は、往復各2日間を加えて、20日から1ヶ月間の出張となる。
- 風雨の日は順延するため、秋口まで演習が行うこともある。
演習内容
町打(ちょううち)、角打、船打および下ケ矢などがあり、それぞれ発射場、射撃目標が決まっていた。
町打
- 遠距離射撃訓練。
- 辻堂海岸に発射場および打小屋を置いた。
- 射撃目標は、柳島村の海岸とした。大筒稽古では、烏帽子岩も標的とした。
角打
- 近距離射撃訓練。
- 鵠沼海岸で行われ、打場から一町ごとに定杭を打ち、発射のたびに着弾地点を特定して飛弾距離を測定した。
船打
- 船上射撃訓練。
- 地元の漁船小船3艘と、三百石船1艘を借り、船上から射撃訓練をした。
下ケ矢
- 高所から下方へ打つ訓練。
- 片瀬村駒立山から下方に打ち下ろした。
脚注
関連項目