矢吹秀一矢吹 秀一(やぶき ひでかず[1][2] / しゅういち、1848年11月20日(嘉永元年10月25日[1][注 1]) - 1909年(明治42年)12月16日[2][3][注 2])は、日本の陸軍軍人。陸軍中将勲一等男爵。旧姓・恒岡。旧名恒蔵[2]。 経歴本籍静岡県[3][4]。江戸浅草で大番組・恒岡源兵衛の六男として生まれ、11歳で一橋家家臣・矢吹恒の養子となり徳川慶喜に仕えた[2]。その後幕府陸軍に転じてフランス式兵学を学び幕府の歩兵差図役下役を務め、慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに従軍し負傷した[2]。維新後、1869年(明治2年)沼津兵学校で資業生(第3期)として学ぶ[5]。明治4年(1971年)に退校して[5]陸軍に奉職し、同年12月、陸軍少尉、1873年(明治6年)2月、陸軍中尉に任官[2]。陸軍士官学校教官、陸軍教導団教官、工兵第3大隊長、工兵会議議員、参謀本部海防局員などを務めた[2]。 1886年(明治19年)5月、陸軍省工兵局次長となる[4]。1887年(明治20年)6月、工兵局長に進み、1889年(明治22年)11月、工兵大佐に昇進[4]。1890年(明治23年)3月、軍務局工兵事務課長に就任し、同年8月、工兵監に転じた[4]。1894年(明治27年)9月、第1軍工兵部長に発令され日清戦争に出征[3][4]。鴨緑江架橋を成し遂げている[2][6]。 1895年(明治28年)1月、陸軍少将に進級し、1898年(明治31年)1月、再び工兵監に就任[3][4]。1900年(明治33年)4月、陸軍中将に進んで翌年7月に休職となった[4]。 1904年(明治37年)10月、日露戦争では留守第1師団長として復帰し[3][4]、1906年(明治39年)3月には第1師団司令部付となり、同年4月に休職[3][4]。1907年(明治40年)3月2日に予備役編入となり[3][4][7]、同年9月21日、軍功により男爵位を授けられた[4][8]。 盲腸炎と腹膜炎を併発し、1909年(明治42年)12月16日、薨去した[9]。 栄典
家族
脚注注釈出典
参考文献
Information related to 矢吹秀一 |