福島第一原子力発電所における放射性廃棄物の処理と管理福島第一原子力発電所における放射性廃棄物の処理と管理(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょにおけるほうしゃせいはいきぶつのしょりとかんり)では、東京電力福島第一原子力発電所に建設された放射性廃棄物を処理するための諸施設について説明する。なお、本発電所は放射性廃棄物の処理施設が運転開始後に段階的に追設されていった経緯があり、使用済み燃料棒の保管場所も専用の建屋を増設することで後の世代の原子力発電所並の容量を確保した。これらについても説明するものとする。 なお、原則として福島第一原子力発電所事故前の状況について取り扱う。 運開時の放射性廃棄物処理液体廃棄物液体廃棄物は発生源別に床ドレン系、ランドリードレン系、機器ドレン系、化学廃液系の4種に区分し収集・処理するものとした。
固体廃棄物固体廃棄物としては下記のものがある[2]。
これらは発生源別に特徴、放射能レベルが異なるため、発生源ごとにグループ分けして処理する。 運開初期の課題1号機が運転を開始した1971年の時点から、運転に伴って発生する放射性廃棄物を入れたドラム缶に貯蔵していたが、その本数の増加率が問題であった。そのため、東京電力としても、廃棄物については発生量を減らすとともに、発生した廃棄物を減容することに工夫を凝らす必要は認めていた。 このため、日立製作所、東芝、日揮、日本碍子といった関係メーカーと共に課題摘出を行い、フィジビリティスタディ、研究開発、各種実用化試験などを進め、対処策を実施していった[3]。 低レベル放射性廃棄物処理の改善放射性派生物集中処理施設上記検討の結果、放射性派生物集中処理施設の建設が1980年11月から開始され、試運転を経た後1984年8月より本格運転を開始、当時としては日本の原子力施設で初の導入例でもあった[4]。 集中処理施設は下記の4つの施設から構成される。
集中処理施設は4号機の南側に立地。プロセス主建屋、焼却炉、工作機械設備建屋、補助建屋から成る。延床面積は36,000m2、主建屋の容積はBWR-5のような110万kWクラスの原子炉建屋に匹敵し、建設は鹿島建設、前田建設が担当した[6]。
また、集中処理設備で使用する冷却用海水を取水するため、4号機の取水口と南防波堤に囲まれた取水庭の角部に取水ポンプ室が施工された[11]。形式は縦型渦巻式で容量は1890m3を3台(内、予備機1台)設け、ポンプ本体は保守性を加味して吊り上げ可能な構造を求められている[12]。工事に当たっては、ポンプ室建屋が従来護岸よりせり出した位置に設置するため、各種工法が検討されたが、仮締切の不要な棚式鋼構造が採用され、従来工法に比較し工期を3ヶ月短縮した[13]。なお、ポンプ室は建屋1F床面でOP+4.200m程である。ポンプ本体と除塵機もこのレベルに据付される[14]。その他、当地で宮城県沖地震にて取得した富岡波と呼ばれる地震波のデータを用いて予め構造解析も実施され、問題ないことを確認したとしている[15]。最終的に、新工法を採用した成果で工期で38%、工事費で44%の削減を達成した[16]。 低レベル処理設備の増設東京電力は1986年に福島県、双葉町、大熊町に対して「低レベル処理設備」を1989年までに新設する旨の事前了解を求め、了解を得た[17]。 この低レベル処理設備は、高温焼却炉と高温圧縮機(減容処理用高圧縮プレスシステム)から構成される。この処理設備により不燃性の放射性廃棄物(不燃性雑固体。金属、ガラス、コンクリート等)の処理も改善が進められた。
また、集中施設運転開始時には1~4号機分を賄う容量しかなかった固化処理施設もこの増設で、全機の固化処理が可能となる計画だった。完成予定は1987年5月末であった[21]。 その他の処理方策の進展1980年代には上記集中処理施設の他、幾つかの進展が報じられ、新製品の実証試験にも供されている。 電解研磨除染法実証試験1983年1月より作業員の被曝量を低減するため、東京電力原子力開発研究所主導で、電解研磨除染法の実証試験が2号機でスタートした。システム全体の統括は東電エンジニアリング、装置一式の納入は荏原インフィルコ、システム運用法、適用性評価は東洋エンジニアリングが担当した。電解研磨除染法は定期検査時に使用した工具類、交換する各種バルブ、ポンプ、配管の除染が目的で、電解槽内にこうした器具を浸し、器具を陽極として電流を流し、金属材料表面に溶解現象を発生させて表面に付着した放射性物質を除去する仕組みである。利点としては下記が挙げられ、最終評価は1983年末に下される計画であった[22]。
フレオン溶剤法による放射能除染システム実証試験また1983年には日立、日立プラント建設がフレオン溶剤法による放射能除染システムの実証試験を本発電所の建屋内で開始した。フレオンは放射性物質が付着した衣類のドライクリーニング用に従来から使用されていたが、両社はこれを除染にも応用し、洗濯層の中に除染対象物を入れて高圧でフレオン溶剤を吹き付け、放射能を洗い落とす方法に応用した。溶剤は除染後にフィルターで放射性物質を除去して再利用する。電解研磨法との相違点は、電極配置を考慮しなくていいのでどのような形状の対象物にも使用できること、錆びついた対象物には不向きなことである[23]。 放射能汚水用フィルター洗浄システムまた1983年、大阪機工は「プラント各社と対等な立場での開発」をモットーに放射能汚水用フィルターを無人で洗浄するシステムを納入した。開発には2年を要し、何枚も重なっているフィルターをはがす作業はロボットが行う。これによりフィルターの再利用が可能となり、本システムは同社の市場開拓にも大きな貢献をしたという[24]。 高性能身体用放射性物質除染剤の導入また、1987年、東京電力は東洋エンジニアリングと共同開発した身体用放射性物質除染剤を発売した。天然オレンジの皮に含まれる油分をクリーム状にし、表面汚染密度を100分の1にする。開発は1983年から開始し、性能試験は本発電所で人間の皮膚に近い豚の生皮に放射性ドレイン(コバルト60、マンガン54等を含有した排液)を塗った結果、従来の酸化チタン除染剤の10倍の効果を確認した。用途としては人体用の他、保修工具、部品の表面汚染除去にも展開を検討していた[25]。 蓄積される放射性廃棄物応力腐食割れ対策で放射性のクラッドが循環水に混入するのを防いだり、上記のような努力によって発生物を減容する努力が重ねられた。しかし、初期に建設されたこともあり放射性廃棄物の貯蔵量は2011年の事故を起こす前から多いことで知られていた。1991年9月時点では全国で38棟、ドラム缶換算で47万5000本余りのうち、本所では24万5313本を保管しており、福島第二の1万4774本より一桁以上多かった(なお、当時の本所貯蔵施設は8棟、容量は29万8500本であった)[26]。 使用済燃料貯蔵施設の増設背景運転開始後四半世紀を過ぎると使用済み燃料の貯蔵要求が増して行ったが再処理施設の建設は延々として進まなかった。そこで、本発電所全原子炉共用の設備として使用済み燃料共用プール、および乾式キャスク貯蔵施設が1990年代に建設された。 乾式燃料貯蔵設備増設貯蔵施設として、共用プールと同時期に乾式燃料貯蔵設備(乾式キャスク貯蔵施設とも)が建設された[27]。1991~1992年度にかけ、電力共通研究として『使用済燃料の乾式キャスク貯蔵の安全性に関する研究』を実施しており、東京電力はこの研究結果を元に施設の設計・建設を進めた[28]。乾式燃料貯蔵設備は、4号機と6号機の使用済み燃料貯蔵に割り当てされた。使用済容器はプラント規模の違いを考慮して下記の2種
が選定された。使用済み燃料は8×8型を想定し、タイプを問わず燃料交換時に炉心から外れて4年以上冷却期間を経たものが貯蔵対象とされている。4年間の冷却期間を経ることで、燃焼度が40000MWD/tu以下となっていることが前提である[29]。 乾式キャスク自体は燃料輸送用のものが既に実用されていたが、この施設で使用する容器は長期保管用であるため、輸送用に比較し、次のような相違点がある[29]。
容器本体の構成は次のようになっている[30]。
容器内部はバスケットと呼ばれるボロン添加アルミニウム合金で格子状に仕切られ、各使用済燃料を所定位置に収納する。円筒状の容器は横置きして保管するため、トラニオンと呼ばれる円筒支持部材で固定され、キャスク支持架台と一体化している。容器については耐震性の面からも検討が加えられ、原子炉建屋の使用済み燃料プール同様、Asクラスの耐震性を有する[31]。製造は神戸製鋼、三井造船にて実施した[32]。 キャスク保管建屋は新設せず、使用済み燃料輸送容器を保管していた建屋を改造した。建屋は大きく保管棟と検査棟に分かれ、検査棟には天井クレーンが備えられている。保管中は貯蔵容器監視装置が放射線、圧力、温度等を監視している[31]。保管建屋は容器自体がAsクラスの耐震性を持ち、建屋内で開封を行わないことからCクラスとして設計されている。ただし、S2地震動に対して安全上支障ないことは確認している[32]。 使用済燃料の初装荷作業は6号機分が1995年9月~11月、12月~1996年1月に4号機分を実施した。装荷作業は各原子炉建屋内で、IAEAの監視下での実施し、最後にIAEAの封印がなされた[32]。 共用プール1993年4月13日、東京電力は福島県知事の佐藤栄佐久のもとに共用プールの事前了解を求めてきた。この際、佐藤は保管燃料の搬出時期について確認を取るため、通産省に照会した。県庁に来庁した通産省の担当課長は2010年と明言した。しかし、1994年に策定された政府の原子力長期計画には「2010年ころに、再処理に関する方針を決定する」と趣旨が変えられていた。通産省に再度趣旨を糾したところ、説明した担当課長は異動していた。佐藤栄佐久はこの件で、ローテーション人事に乗っかった官僚の無責任さを痛感し、原子力政策に対する不信の原点になった旨を回顧している[33]。 共用プールは1993年計画、1997年10月1日に完成し、総工費は約450億円であった。ただし、核燃料サイクルへの疑問から福島県が神経をとがらせ始めていた保管燃料の六ヶ所村再処理施設への搬出は六ヶ所での反対運動の影響で遅れをみせており、保管された燃料の先行きは佐藤栄佐久が1994年に懸念した以上に不透明な中での運用開始であった[34]。 本発電所は日本でも初期に建設されたため、各号機建屋の使用済燃料貯蔵プールの容量が約250%(燃料集合体8310体)しかなく、後発のプラントの半分の容量であった。これを補うためには別に貯蔵場所を確保する必要があった。共用プールは技術的・法規的には既存の燃料プールの延長にあるもので、各号機の貯蔵プールと同様にステンレス鋼を内張りしたコンクリート製である。臨界を防止するため使用済み燃料は貯蔵ラックに収納される[35]。燃料本数は1~6号機全燃料装荷量の200%に相当する容量であるが、1~6号機から1年に発生する使用済み燃料は700体のため、約10年分の貯蔵量である。集合体ごとに分割された使用済み燃料とは言え崩壊熱は発生しているため、プール水冷却浄化系が設けられている。冷却のために、大気を媒体としたファン式の空気式冷却塔を設置している。これはファンにより冷却媒体の空気を伝熱管束に導く熱交換器の一種だが、『原子力eye』1998年4月号での報告記事によれば、設置場所、共用プールの冷却法に制限があったため設置場所を選ばない冷却方式を求めた結果であるという[36][37]。
脚注注釈出典
参考文献
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