程 克(てい こく)は、中華民国の政治家。北京政府の要人。字は仲漁・衆漁。
事績
河南大学を卒業後、日本に留学する。東京帝国大学法科を卒業して法学士を取得した。また、中国同盟会に加入し、雑誌『河南』を創刊している。帰国後は天津で革命派のための秘密活動に従事したが、事が漏れて捕らえられた。趙秉鈞の斡旋により釈放されている。
1912年(民国元年)6月以降、北京政府内務部で各職を歴任している。1913年(民国2年)4月には国会参議院に選出された。1914年(民国3年)6月、陝西省の漢中道尹となり、1915年(民国4年)12月には、副都統阿爾泰(アルタイ)弁事長官に任じられた。1918年(民国7年)、病により辞職、帰郷した。
1922年(民国11年)、河南督軍となっていた馮玉祥の知遇を得る。1923年(民国12年)1月に、その推薦により司法総長兼修定法律館総裁に任じられた。在任中の程克は、法廷で無罪判決を受けて釈放された羅文幹(政治家・法学者)について、判決を不服として上訴し、羅文幹を再度収監させてしまう。これは、全国司法界の反発・激昂を招く大失態となってしまった[1]。
1924年(民国13年)1月、程克は内務総長に昇進した。しかし同年9月に辞任し、天津に寓居する。なお、この頃までには、程克は殷汝耕・殷同・袁良とともに、日本通の四巨頭と目されるようになっている。
国民政府成立後の1933年(民国22年)9月に、北平政治会議顧問として招聘に応じた。1935年(民国24年)6月、天津市長に任じられる。同年12月には、冀察政務委員会委員となった。
1936年(民国25年)3月28日、天津にて病没。享年59。
脚注
- ^ 羅文幹事件(対オーストリア契約事件)の詳細については、羅文幹の項を参照。
参考文献