竹崎 順子(たけざき じゅんこ、1825年12月4日(文政8年10月25日) - 1905年(明治38年)3月7日)は、日本の教育家である。竹崎八十雄の祖母である。
略歴
肥後国上益城郡津森村(現熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋・矢嶋直明の3女として生まれる。妹に徳富一敬の妻で徳富蘇峰と徳冨蘆花の母親である徳富久子、横井小楠の妻横井つせ子、矢嶋楫子がいる。この姉妹4人は「肥後の猛婦」「四賢婦人」と呼ばれた。
1840年(天保11年)に玉名郡伊倉の竹崎家の養子竹崎茶堂(1812-1877、旧名・木下律次郎[1][2])と結婚する。夫は酒造業を起こすが、米相場に関わり失敗し、1843年(天保14年)に阿蘇郡西村布田で開墾生活を始め、その傍らで竹崎塾を開いて手習いを教えた。1860年(万延元年)に夫の兄木下初太郎が開いた干拓地の経営のために玉名郡横島村(現玉名市横島町)に移住する。
1870年(明治3年)に藩政改革で夫が民政局大属になったので熊本に移住する。夫が日新堂という塾を経営し、順子も15、6名の女生徒を教えた。1877年(明治10年)5月に夫が死去した。1887年(明治20年)10月、海老名弾正の来熊を機にキリスト教の洗礼を受ける。1889年(明治22年)に64歳で熊本女学校の初代舎監になった。1890年(明治23年)に校長の海老名が熊本を去り、後任校長に若い蔵原惟郭が就任すると順子の退職が決まったが、順子を慕う生徒の退学が続いたため再採用となった[3]。1892年(明治24年)に熊本英学校事件が起こり、蔵原は学校を去った。順子は1897年(明治30年)に女学校の校長に就任し、亡くなるまで8年間校長として、学校の運営を基盤を築いた。墓所は熊本市竹崎公園。
親族
竹崎茶堂との間に二女をもうけたが、長女は早世、次女・節子に養子を迎えた[3]。
夫の兄・木下初太郎(1804-1886)は玉名郡南関の惣庄屋で伊倉同田貫の流れをくみ、鉄砲製作も手掛けた[4]。その娘婿に政治家の木下助之[5]。助之の兄に木下犀潭、甥に木下広次、姪に井上毅の妻・鶴、初太郎の曾孫に木下順二、木下道雄などがいる。
参考文献
- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
- 徳富蘆花(健次郎)『竹崎順子』福永書店、1923年、全集版 蘆花全集刊行会、1929年
- 神崎清「竹崎順子(古き愛の教育者)」(『近世名婦傳』朝日新聞社、1940年 p.1-20)
- 上村希美雄「野の母の記録―竹崎順子」(紀田順一郎編『明治の群像9 明治のおんな』三一書房、1969年 p.47-78)
- 上村希美雄「みそ汁ヤソの灯―竹崎順子」(『民権と国権のはざま 明治草莽思想史覚書』葦書房、1976年 p.140-181)(上記の再刊)
脚注
- ^ 竹崎茶堂デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 『古荘四郎彦の素顔』野口昂、酣灯社、1955、p32
- ^ a b 『御母堂物語: 歴史を創った偉人の母17人』田井友季子、光言社, 1998、p81
- ^ 企画展 「同田貫」玉名市、2005年1月1日
- ^ 近代山鹿の偉人たち014 熊本県蚕糸業の開祖 長野濬平山鹿市教育委員会、平成22年3月