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粛軍クーデター

粛軍クーデター
12.12軍事反乱
各種表記
ハングル 12(십이)·12(십이) 군사 반란
12(십이)·12(십이) 숙군 쿠데타
漢字 12(十二)·12(十二) 軍事 叛亂
12(十二)·12(十二) 肅軍 쿠데타
発音 シビシビ クンサ パラン
シビシビ スックン クーデター
日本語読み: 12(じゅうに)·12(じゅうに)ぐんじはんらん
12(じゅうに)·12(じゅうに)しゅくぐんくーでたー
RR式 sibisibi gunsa balran
sibisibi sukgun kudeta
MR式 sibisibi kunsa palran
sibisibi sukkun k'udet'a
英語 Coup d'état of December Twelfth
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粛軍クーデター(しゅくぐんクーデター)或いは12.12軍事反乱( - ぐんじはんらん)は、1979年12月12日大韓民国(韓国)で起きた軍内部の反乱事件。

後の韓国大統領(第11・12代)で当時国軍保安司令官だった全斗煥陸軍少将と、同じく後の韓国大統領(第13代)で当時第9歩兵師団長だった盧泰愚陸軍少将などを中心とした軍内部の秘密結社「ハナ会」(壹会または一心会)が主導してクーデターを起こし、全斗煥やハナ会グループと対立していた陸軍参謀総長兼戒厳司令官の鄭昇和陸軍大将を逮捕した。

当時大統領の崔圭夏は軍部を掌握できていなかったためにこれを黙認せざるを得ず、翌1980年5月17日の非常戒厳令全国拡大(5・17非常戒厳令拡大措置)により全斗煥らハナ会グループは権力を掌握。これに反発して同月に光州で起きた民主化運動を武力弾圧(光州事件)すると、8月に崔大統領に圧力をかけて辞任させ、全斗煥が後任の大統領に就任した。光州事件までを含めると、世界史上最も長期間にわたったクーデターとされている。

背景

1979年10月26日朴正煕大統領が大統領警護室長の車智澈共々大韓民国中央情報部(KCIA)部長の金載圭によって暗殺されると、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任、済州道を除く韓国全土に非常戒厳令が発令され、12月6日には統一主体国民会議代議員による選挙で第10代大統領に選出された。

崔圭夏の選出はあくまで維新体制の枠内でのことだったが、代行就任直後の11月10日に早期の憲法改正と新憲法に基づく大統領選挙を実施することを旨とする談話を発表[1]、また大統領就任直後の12月8日には緊急措置9号[2]の解除と同措置によって拘束されていた政治犯68名を釈放[3]するとともに、金大中の自宅軟禁を解除した事から、独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭した。

一方、朴正煕暗殺事件の捜査過程において、戒厳司令官の任にある鄭昇和陸軍参謀総長と合同捜査本部長の任にあった国軍保安司令官全斗煥少将の間に軋轢が生じた[4][5]。更に鄭総長は全斗煥や第9師団長盧泰愚少将が中心となって形成された秘密組織「ハナ会」のメンバー将校が軍内の要職(特に首都圏の各部隊)に就き優遇されていることを問題視し、これを軍中枢より排除してハナ会を実質的に解体しようと試みた。具体的には全斗煥を保安司令官から第1軍東海岸警備司令部[6]に転任させる計画を立てたり、新たに実直な軍人として知られる陸軍本部教育参謀部次長の張泰玩少将を首都警備司令官に任命してハナ会を牽制する(張少将は陸軍士官学校ではなく陸軍総合学校朝鮮語版出身であり、ハナ会の人脈とは一切関わりがないため)などの行動である。

しかし、鄭総長は前述の民主化ムードに対し今後の軍の方針としては「軍は政治に介入すべきではない」という主張を持ち出し、あくまでもこれまでの維新体制に終止符を打とうとした[7]。その為、ハナ会のメンバーはもちろん、朴前大統領の寵愛を受けた他の多くの将校たちの反感も買う結果となった。当時の軍内における朴前大統領の影響は絶大だったことで、相当の数の軍人たちは維新憲法から民政に引き戻されるのを黙って見守るつもりはなかった。また、彼らの敬愛する朴前大統領と同じ手法で彼らの「理想」を貫こうとした全斗煥とハナ会グループこそが同志と見なされ、朴路線復活を目指そうという点で利害関係が一致した。その為、その多くの将校たちは次々と全斗煥側に付き、後のクーデター決行時には全斗煥側が有利な状況となっていた。

こうした動きの中、鄭総長の思惑はもちろんすでに軍内部に確固たる情報網を築いていたハナ会の知るところでもあった。例えば文民政権発足後の1993年に中央日報が鄭昇和に対して行ったインタビューでは、鄭昇和は盧載鉉国防部長官に全斗煥の転任計画を相談したという(これは保安司令官は組織上国防部長官の直属の部下であったからである)[8]。盧載鉉は翌日に金容烋朝鮮語版国防部次官などとの会議でこのことを伝えたが、金次官は全斗煥にこの計画を伝えてしまった[9]。もはや一刻の猶予も許されないと感じた全斗煥らハナ会グループはついに先手を打つことを決心することとなる。

クーデターの経過

鄭総長の逮捕と崔大統領による決裁拒絶

12月12日夕方、ハナ会メンバーである張世東大佐が団長を務めるソウル景福宮内の首都警備司令部第30警備団司令部に全斗煥以下ハナ会の中核メンバー将校とその協力者たちが集結し、麾下の兵力を動員してクーデターを開始した。この際、第30警備団司令部に集結したクーデターグループの主だった将校は以下の通りである。

まずは保安司令部人事処長の許三守と陸軍犯罪捜査団長の禹慶允両大佐が保安司令部の捜査官および合同捜査本部指揮下の第33憲兵隊[23]の憲兵合わせて数十人と共に陸軍参謀総長公邸に向かい、公邸にいた鄭総長を逮捕して保安司令部に連行した(朴正煕暗殺事件の発生時、金載圭から飲食の誘いを受けた事により、事件現場から至近距離にいながらすぐに逮捕しなかったことで、内乱幇助の疑いをかけられた)。この時点では全斗煥側が作戦はすでに成功したと確信していた。

しかし戒厳司令官たる鄭総長の逮捕には大統領の許可が必要であるため、全斗煥はこれと同時並行の形で崔圭夏大統領に事後承認の形で裁可を得ることでこれを法的に正当化しようとするが、「国防部長官の承認なしには絶対に決裁しない[24]」と拒まれたことで、この行為は違法行為ということになってしまった。合同捜査本部は戒厳司令部傘下の機関である以上、鄭総長は全斗煥にとって直属上官に当たるため指揮系統の都合上むやみに逮捕することが出来ず、より上位に位置する国防部長官と大統領の裁可を得て初めて合法となるためである。

またそれと同時に、前述の逮捕過程中に警備兵との撃ち合いも発生、死傷者が出たため事が大きくなってしまった。全斗煥らハナ会グループは以上のような状況を予期しておらず、更に国防部長官公邸にいた盧載鉉長官本人も近隣の参謀総長公邸からの銃声を武装共匪(北朝鮮からの共産ゲリラ)による襲撃と誤認して家族と一緒に避難していたため、全斗煥側らハナ会グループは盧の捜索を始めることとなる。

事態の拡大と進まないクーデター鎮圧

一方で参謀総長公邸が襲撃されたという通報を受けて漢南洞に出動した警察の部隊や、銃声を聞いて展開した各軍の部隊は詳細な状況が不明のまま現場で入り乱れ[25]、公邸のある漢南洞や景福宮一帯では混乱が拡大し、漢江に架かる11の橋も遮断された。後に、総長拉致の「犯人」の中には陸軍本部の禹慶允大佐がいること、また当大佐が合同捜査本部への派遣勤務中であったことが判明したことにより、当事件が保安司令部の仕業およびその首謀者が全斗煥であることが露呈した。陸軍本部(最高指揮官たる参謀総長が不在のため、参謀次長の尹誠敏朝鮮語版中将が代理で指揮を執っていた)は直ちに「珍島犬1」(最高レベルの非常警戒警報)を発令、これを受け首都警備司令官の張泰玩少将と特殊戦司令官鄭柄宙少将もクーデター鎮圧を試みた。しかし、反クーデター側などによるクーデター鎮圧の動きは様々な理由で上手くいかなかった。

まず、陸軍本部指揮下で即応できる兵力が不足していた。クーデター当時、特殊戦司令部麾下の空輸特戦旅団は4個旅団(第1・第3・第5・第9)が首都圏に駐留していたが、そのうち第1・第3・第5の3個旅団の旅団長がハナ会のメンバーでクーデターに参加していたため、旅団長などの部隊指揮層が非ハナ会メンバーだった第9空輸特戦旅団だけはまだその統制から離れていないような状況だった。首都警備司令部も数少ない平時でも戦備状態を維持する主力部隊である第30・第33の両警備団の団長はいずれもハナ会メンバーであり、その指揮下の兵力がほとんどが全斗煥側に付いたため、張少将が掌握していたのは司令部直属の僅かな兵力と野戦砲兵部隊・防空砲兵部隊程度だった[26]。また、ハナ会の後援者で反乱軍に参加した車圭憲中将はソウル南部・西部を管轄する首都軍団の指揮官であり、黄永時中将も同じくソウル北西部を管轄する第1軍団の指揮官でもあった。このように当時ハナ会とその後援者たちは首都圏の各部隊指揮官のポストの多くを占めており、反クーデター側が動員できる兵力は一気に少なくなっていた。

加えて、反クーデター側は北朝鮮軍の動向も考慮する必要があり、南侵の脅威の中で上記の即応兵力以外の部隊、つまり国境防衛にあたる「前方部隊」の投入は慎重に行わければならなかった。更には兵力出動による直接のクーデター鎮圧は、下手すれば首都たるソウルが国軍が相撃つ戦場となることが予想されるため、張少将や鄭少将が兵力出動による強硬鎮圧を主張する一方、尹中将を始めとする陸軍本部の多数派は兵力投入を躊躇していた。結局、反クーデター側はクーデター鎮圧の機を失し、ハナ会によるクーデター成功を招くこととなる。

その他にも、保安司令部自体が反乱を起こしたことによる影響も「最悪」と言っても過言ではなかった。保安司令部の本来の任務は対スパイ対反乱だったため、全軍の通信セキュリティ掌握による各部隊への監視権限を持っており、反クーデター側は作戦計画から実際の動向までほぼ全てが保安司令部の盗聴により筒抜けになっていたためである。ハナ会グループはこれを生かして、反クーデター側の情報を逐一把握し、その動きに対処することができた。また、ハナ会グループは保安司令部自身の「監軍」のような地位も利用し、逆にクーデター鎮圧のため積極的に兵を動こうとした首都警備司令部と特殊戦司令部を反乱軍として仕立て上げようと試み、「各部隊はあちらからの指示を一切拒否せよ」というような偽情報と指令を流して反クーデター側の作戦を有効的に撹乱していた[27]

国防部長官の確保、そしてクーデター成功へ

こうして陸軍本部側が兵力出動によるクーデターの強硬鎮圧に躊躇する中、全斗煥側ハナ会グループは躊躇なく行動を開始した。まずソウル近辺に駐屯していた朴熙道准将指揮下の第1空輸特戦旅団朝鮮語版に出動命令が下され、その上でさらに米韓連合司令部の統制もなしに「前方部隊」である第9師団第2機甲旅団朝鮮語版などの一部兵力もそれぞれ盧泰愚少将と黄永時中将の独断命令によりソウルに進軍し中央庁を掌握しようとし、事態は一歩間違えれば内戦を勃発させる寸前に発展する[28]

さらに当時の大統領警護室は室長代理を務めていた鄭東鎬朝鮮語版准将[29][30]がハナ会メンバーであった上、その指揮層の将校もほぼハナ会メンバーかその取り巻きでクーデターに同調していた。よって全斗煥側は鄭准将を通して大統領警護部隊まで利用し、崔大統領がいる国務総理公館[31]の警備を担当していた陸軍憲兵隊を武装解除して制圧し、外界への接触を実質上遮断した。これにより、崔大統領は後にハナ会グループの圧力によって屈服せざるを得ない状態に陥ったため、状況は反クーデター側にとってますます不利になっていた。

それでも特殊戦司令官の鄭柄宙少将の命令で、鎮圧軍側で数少ない動員可能部隊である第9空輸特戦旅団がようやく準備を整え(同じく保安司令部の妨害工作を受けたがそれをなんとか退けたという)駐留していた仁川より出動した。ハナ会グループ側が動員した部隊はいずれもまだソウルには到達できていなかった一方、第9空輸特戦旅団は京仁高速道路に乗れば1時間以内にソウルに到達可能だったため、一時ハナ会グループは恐慌状態に陥った。そこで、ハナ会グループは陸軍本部側に対し、「ソウルが国軍が相打つ戦場になるのを回避する」という名目で、これ以上の兵力動員をしないことを約束する代わりに鎮圧軍側も第9空輸特戦旅団を帰還させる紳士協定を提案した。陸軍本部側はこれを受け入れ、出動途中だった第9空輸特戦旅団は帰投した。

しかしこれはハナ会グループ側の時間稼ぎ策であり、自ら部隊に戻った朴准将の直接指揮の下で進行を続けていた第1空輸特戦旅団を撤退させず[32]、すぐさま紳士協定を破棄した。これにより国防部や陸軍本部が制圧占領され、国防部庁舎にいた盧載鉉国防部長官も「確保」されてしまう。またほぼ同時に、特殊戦司令部も全斗煥の意向を受けた崔世昌准将指揮下の第3空輸特戦旅団の兵力に急襲され[33]、鄭柄宙少将は第3空輸特戦旅団第15大隊(大隊長の朴琮圭朝鮮語版中佐も同じハナ会メンバーである)によって拘束された。その時鄭少将の副官だった金五郎少佐は上官を守るため必死に応戦したが、多勢に無勢で敢え無く射殺され(鄭少将自身も左腕に銃弾を受け負傷した)、クーデターによる数少ない「直接」の犠牲者となった[34]

それでも、張泰玩少将は最後まで反乱鎮圧を試み、直属の僅かな歩兵部隊や戦車部隊に加え、事務部門の兵士や炊事兵までかき集めて100名余りの戦闘部隊を臨時編成し、張少将がこれを直接指揮して第30警備団を攻撃しようとしたが、万一の際の裏切りを危惧した部下に制止され、最終的に張少将は鎮圧を断念した[35]。その直後、張少将以下首都警備司令部の面々や指揮を執りやすいよう首都警備司令部に移動していた陸軍本部の面々は、麾下部隊の首都警備司令部憲兵団の副団長で全斗煥に同調した申允熙朝鮮語版中佐らの反乱によって拘束された。

盧載鉉は全斗煥らの圧力に屈し、すぐさま戒厳司令官逮捕を決裁し、崔圭夏大統領に裁可を求めることとなった。崔大統領は盧の対応のまずさを非難し、戒厳司令官逮捕後による事後承認は認めないと突っぱねたが、就任したばかりの身で軍部を全く掌握しておらず、事態を収拾するためには保安司令部と「ハナ会」を中心に決行された反乱を黙認せざるを得ず、書類に裁可時刻である「12月13日午前5時10分」と署名して裁可し、鄭総長の逮捕劇が事後承認である証拠を残した。いずれにせよこの結果、鄭総長は軍法会議で懲役10年刑を宣告された上に大将から二等兵に降格されて予備役編入となり、鄭柄宙特殊戦司令官や張泰玩首都警備司令官は80年1月20日付で強制的に予備役編入された。

クーデターのその後

こうして保安司令部とハナ会を中心とした粛軍クーデターは成功し、鄭総長の後任となる陸軍参謀総長兼戒厳司令官には、KCIA部長代理の李熺性朝鮮語版陸軍中将[36]が大将に昇進の上で就任した。そして、盧載鉉国防部長官も前述のような一連の責任を負う形で翌12月14日をもって辞任、後任は1979年4月まで韓国空軍参謀総長を務めた周永福元空軍大将が就任した。

しかし、実際はいずれにしても、全斗煥や盧泰愚たちハナ会を中心とした「新軍部」[37]が軍部の実権を掌握することとなり、周国防長官と李総長は単なるお飾りに過ぎず、それ以降新軍部の意向が優先される人事任免や政策方針制定などについて、ほぼ一切口を出すことができなくなった。

こうして新軍部の意向による人事任免が行われていくこととなったが、一方で同時に反クーデター側の人物に対する懐柔策も取られていた。例えば陸軍参謀次長として名目上反クーデター作戦の最高指揮官の立場に立った尹誠敏中将は一旦保安司令部に連行されたものの、全斗煥や兪学聖らの推薦を受け第1軍司令官代理(後に正式に第1軍司令官)に任命された[38]。他にも反クーデターの立場だった柳炳賢朝鮮語版陸軍大将は当時米韓連合司令部副司令官だったため、新軍部も粛軍クーデターに当初反対していたアメリカの手前表立った手出しは出来ず[39]、柳大将は韓国軍制服組トップである合同参謀本部議長に就任している[40]

しかしその後も軍内部で粛軍クーデターに反対する動きはあり、クーデター当時の駐韓アメリカ大使だったウィリアム・グレイスティーン英語版は1999年の文化放送インタビューで、1980年1月末に30名余りの韓国陸軍将官が新軍部に対する逆クーデターを計画し、自身に面会してアメリカの支持を求めたことを明らかにしている。ただ、グレイスティーン本人は粛軍クーデター反対の立場だったものの、逆クーデターを計画する将官たちの詳細をあまり知らなかった上、彼らがどれ程の兵力を掌握しているか不明だったため、大規模な武力衝突に発展する可能性も考慮してこれに反対したという[41]

光州事件、そして第五共和国体制の確立へ

いずれにせよ、ここまでの段階ではクーデターとはいうものの実質的には軍内部の反乱であり、全斗煥側にとっては文字通り「粛軍」が完遂となった。後の「政権を奪取する」という意味でのクーデターに該当するのは、むしろこれ以降の1980年5月の光州事件に至る過程である。これによって崔圭夏を辞任に追い込み、ハナ会グループを主軸とした新軍部が実権を握るに至ったからである。

朴正煕政権時代に似た軍部独裁を志向する新軍部に抗議して大規模な学生デモが発生したが、1980年5月17日軍事クーデターによる非常戒厳令全国拡大とそれに抵抗する民主化運動を武力弾圧(光州事件)、同年8月崔圭夏大統領は新軍部の圧力の下に辞任、9月1日には全斗煥将軍が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出された。そして1980年10月22日に改憲案に対する賛否を問う国民投票が9割以上の賛成で承認、10月27日に新憲法が公布・発行し、第4共和国体制は終わりを告げた。そして1981年2月25日に行われた大統領選挙に立候補した全斗煥が圧倒的得票で当選。3月3日に第12代大統領に就任し、第五共和国(五共)体制をスタートさせた。

後の金泳三政権下で、全斗煥・盧泰愚らは光州事件と政権奪取の首謀者として捜査対象となり、刑事裁判にかけられたが、刑法では時効が援用されて全斗煥・盧泰愚は内乱罪に問われなかった。しかし直後に、粛軍クーデターが全斗煥将軍らの軍刑法における反乱罪にあたると認定された。崔圭夏大統領が鄭総長逮捕を認める書類に記した事後承諾を示す裁可時刻も、この裁判において証拠として使用されている。

関連作品

映画
  • ソウルの春 - 2023年の韓国映画。粛軍クーデターをフィクションを交えつつ描いている。
テレビドラマ
  • 第4共和国文化放送が制作したテレビドラマ「共和国シリーズ」の第4作目。第5話と6話において粛軍クーデターを取り上げている。
  • 第5共和国:文化放送が制作したテレビドラマ「共和国シリーズ」の第5作目。第4 - 9話において粛軍クーデターを取り上げている。

脚注

  1. ^ 憲法 빠른 기간내 改正 새大統領 法定時日内 먼저선출 殘餘任期다안채우고 選擧실시(憲法 早い期間内に改正 新しい大統領 法定時日内にまず選出 残余任期全て満たさずに選挙実施) (PDF) 東亜日報1979年11月10日付1面[リンク切れ]
  2. ^ 1975年5月13日に布告された緊急措置。(1)流言飛語のねつ造や流布、事実の歪曲伝播行為の禁止。(2)集会や示威、新聞、放送、通信などによる憲法の否定や廃止を請願する、宣伝する行為の禁止。(3)授業や研究など事前許可を受けた場合を除く学生の集会や示威または政治関与行為の禁止。(4)同措置に関する誹謗行為の禁止。(5)これらの禁止行為に違反する内容を放送や報道、その他の方法で伝播するか、そのような内容の表現物を製作、販売、所持する行為の禁止。などでこれらの措置に違反した場合、裁判所の令状無しに逮捕や押収、捜査を行う事が可能で、一年以上の有期懲役刑に処する事ができるとする内容である。
  3. ^ 拘束人士68명 석방 文益煥・咸世雄씨둥 포함 不拘束2百24명免訴(拘束人士68名釈放 文益煥・咸世雄氏など含む 不拘束224名免訴) (PDF) .東亜日報1978年12月8日付1面
  4. ^ 朴政権では国軍保安司令部はKCIA・大統領警護室に並ぶ3大中枢機関の一つであり、互いに牽制しあうことでバランスが保たれていた。しかし朴正煕暗殺事件後、KCIAはトップが暗殺犯になったこと、大統領警護室はトップが暗殺されたことでそれぞれ影響力を失った。
  5. ^ 一方、残る保安司令部は司令官の全斗煥が合同捜査本部長に任命された上に、他の情報機関を一手に掌握した。そのため、全斗煥が持つ権限は一気に拡大し、政権の実力者としてその名が浮上していくこととなる。全斗煥は各省庁の次長を召集して会議を行ったり、裏金を使って賄賂を送ろうとしたため、鄭昇和に快く思われなかった。
  6. ^ 現在の第3軍第7機動軍団の前身。今でこそ攻撃と機動戦のみを任務とする韓国陸軍唯一の機動軍団で大量の機械化戦力を有してはいるが、粛軍クーデター当時は訓練部隊と少数の実戦部隊しか持たない後方単位であり、閑職と見做されていた。
  7. ^ 『歴史群像No.91「戒厳令下で勃発した流血の反政府騒乱・光州5.18事変」』Gakken、2008年10月、163頁。 
  8. ^ “12·12는 군형법상 명백한 반란”/당시 육참총장정승화씨 인터뷰”. 중앙일보(中央日報) (1993年5月14日). 2024年1月22日閲覧。
  9. ^ 청와대-백악관 X파일(25) "전두환 제거할테니 미국이 밀어달라" 30여명의 장성들 역쿠데타 지원 요청하다”. 위키리크스한국 (2018年9月22日). 2024年1月22日閲覧。
  10. ^ 陸軍士官学校第12期生で、同期でハナ会メンバーだった朴熙道・朴世直朝鮮語版(粛軍クーデター及び光州事件当時は第3師団長で、首都警備司令官を経て少将で予備役入り後、数多くの閣僚や第13・14代国会議員を歴任)と共に「スリー朴」と呼ばれた一人。粛軍クーデター後は陸軍本部人事参謀部長、国軍保安司令官を歴任し、大将で予備役入り後は第12・13・14代国会議員を務めた。
  11. ^ 粛軍クーデター当時は陸軍本部直轄部隊。1983年に機械化歩兵師団に昇格し、上位部隊も変更で当時新設立したばかりの第7機動軍団の指揮下に移管された。以降2019年に同軍団所属の第11機械化歩兵師団と合併、後者に吸収される形で再編されるまでは第7機動軍団麾下部隊となっていた。
  12. ^ 陸軍士官学校第12期生で、同期でハナ会メンバーだった朴俊炳・朴世直と共に「スリー朴」と呼ばれた一人。後に第26師団長、特殊戦司令官、第1軍団長、第3軍司令官、陸軍参謀総長(第29代)などを歴任した。全斗煥からの信任が厚く、陸軍参謀総長時代には盧泰愚政権に影響力を残そうとした全斗煥によって2年だった参謀総長の任期を更に1年延長されるが、それを快く思わなかった盧泰愚によって政権発足後に更迭された。
  13. ^ クーデター後は第3空輸特戦旅団長として引き続き在任し、光州事件において民主化勢力の武力鎮圧に関与した後、首都防衛司令官、第1軍団長、陸軍参謀次長、合同参謀本部議長などを歴任した。退役後は盧泰愚政権下において国防部長官を務めた。
  14. ^ 粛軍クーデター後は首都機械化歩兵師団長、首都軍団長、陸軍教育司令官を歴任した。その後は現役将官として総務処(現行政安全部)次官に就任し、中将で予備役入り後に総務処長官を務めた。
  15. ^ 第5空輸特戦旅団は粛軍クーデター後、2000年に特殊任務団への縮小を経て、2010年に国際連合平和維持活動などの海外派兵を主任務とする国際平和支援団朝鮮語版に再編されている。
  16. ^ 陸軍士官学校11期生で、全斗煥や盧泰愚などと共にハナ会創設に携わった一人。しかし同期と比べて昇進が遅れており、クーデター当時は閑職というべき第71防衛師団長だったため、積極的に反乱に参加したとされる。クーデター後は第9歩兵師団長、陸軍情報司令官、第1軍団長を務めるが、第1軍団長在任中の1980年、病気のため急逝した。
  17. ^ 防衛師団とは予備役部隊であり、平時は司令部など僅かな人員のみで予備役兵の訓練を担当し、戦時にその予備役兵を動員することよって定数を充足させる師団である。そのため、粛軍クーデター当時は首都警備司令部傘下に置かれた部隊とはいえ、実兵力はほとんどなかった。その後、1984年に第57歩兵師団に格上げされた後、1990年にそこから分離する形で「第71歩兵師団」として再発足したが、2016年に解体されている。
  18. ^ a b これら首都警備司令部麾下の各警備団は、元々1961年の5・16軍事クーデターの際、クーデターに参加してソウルに進入した第30・33の2個予備師団の兵力にルーツを有している。クーデターが成功して国家再建最高会議が成立した後、これらから各1個大隊をソウルに派出してそれぞれ「第30警備大隊」「第33警備大隊」とし、それらを束ねる上級部隊として首都警備司令部(創設時の名称は首都防衛司令部)が創設され、各警備大隊は1974年に団級部隊に拡大改組されて警備団となった。その都合上軍事政権の親衛隊としての志向が強い部隊であり、中隊級戦車部隊も有しているなど、平時の首都に駐留する唯一の戦闘部隊として軍内の要職の一つでもあった。
  19. ^ a b 第30警備団及び第33警備団は粛軍クーデター後、金泳三政権下におけるハナ会粛清の一環として統合再編され、第1警備団朝鮮語版となっている。
  20. ^ クーデター後は首都警備司令部作戦部長、首都機械化歩兵師団長、陸軍3士官学校長、首都防衛司令官、米韓連合司令部副司令官、第29代陸軍参謀総長を歴任。その後、陸軍参謀総長在任中、金泳三による最初のハナ会粛清として更迭される。
  21. ^ 陸軍士官学校8期生で、5・16軍事クーデターに参加した経歴がある。粛軍クーデター後は当初中央情報部長に就任する案があったがお蔵入りとなり(これは崔圭夏が反対したためという説と、同期の金鍾泌金炯旭が中央情報部長になった後に没落していくのを見た車本人が固辞したという説がある)、陸軍士官学校長、陸軍参謀次長、第2軍司令官を歴任した後、大将で予備役編入後は運輸部長官の他、民主正義党顧問を務めた。
  22. ^ 陸軍士官学校10期生で、粛軍クーデターの計画に具体的に関与したとされる。クーデター後は陸軍参謀次長、第3軍司令官、陸軍参謀総長(第24代)を歴任し、大将で予備役編入後は監査院長、民主正義党顧問などを務めた。
  23. ^ 本来は首都警備司令部から派出し、大統領警護室配属下の部隊であるが、朴正熙暗殺事件発生後、捜査進行上兵力増強が必要のため合同捜査本部指揮下へ転属した。
  24. ^ 全国戒厳令の場合は大統領が総責任者となるが、部分戒厳令の場合は国防部長官が責任者となる。当時発令されていた戒厳令は済州道を除いた部分戒厳令だったため、国防部長官が責任者となっていた。
  25. ^ 夜間だったこともあり、漢南洞に展開した陸海空軍の各部隊や警察は、この事態が北朝鮮の武装ゲリラによるものなのかあるいは別の原因によるものなのかも分からず、ひいては敵味方の状況や識別すら困難という混乱の中、現場で対峙するといった状況だった。それはハナ会グループが増援として第30警備団から派出された一部兵力を送り込んでもまだ続き、結局クーデター終結後の翌早朝、盧載鉉長官の命令で各部隊が撤収したことで収束することとなる。
  26. ^ それでも張少将は当時団長の金振永大佐が第30警備団に赴いて不在だった第33警備団に命令し、反乱鎮圧のために戦車中隊を動員しようとした。しかし金大佐が自身に対して発出された射殺許可にも顧みずに出動中の戦車中隊に直接赴いて説得したことで、戦車中隊は原隊復帰してこの試みは失敗に終わっている。その後、金大佐は第33警備団に戻り、改めて部隊を掌握した。
  27. ^ 例えば、本来はハナ会勢力の浸透がまだ届いておらず、陸軍本部が動員可能と思われた首都機械化歩兵師団第26師団朝鮮語版もこのような欺瞞工作によりその出動命令が阻まれた。また、第30師団朝鮮語版もこれにより首都警備司令部からの管轄下の橋の封鎖要請を応じず、後述の全斗煥側の兵力の行軍と通過を簡単に許す結果となった。
  28. ^ ただし、クーデターに参画した朴俊炳少将は、指揮下の第20歩兵師団の動員を全斗煥から求められるものの拒否している。後に金泳三政権下で行われた粛軍クーデター・光州事件を巡る裁判においてこの点を認められ、朴少将は無罪判決を受けた。
  29. ^ 後に正式の大統領警護室長に任命され、以降第8師団長を経て、陸軍本部人事参謀部長、第5軍団長、陸軍参謀次長を歴任。しかし1986年、国会国防委員会所属の国会議員と陸軍首脳部に設けられた酒席の場が集団乱闘事件に発展し、同席した上に乱闘騒ぎにまで加わったことから、その責任を問われて中将で予備役編入となった。予備役編入後は韓国道路公社理事長職を経て、第13・14代国会議員を務めている。
  30. ^ 朴正煕暗殺事件以降、大統領警護室はトップである警護室長の車智澈が事件に巻き込まれて死亡し、次いで警護室次長だった李在田中将は事件阻止に失敗したことを職務怠慢と見做され、その責任を負う形で解任の上予備役編入されていた。そして、警護室作戦次長補の金復東少将(ハナ会のメンバーだったものの、粛軍クーデターには反対したとされる)と他2名も同じく責任を取らされて第3軍副司令官などの職へ左遷させられたため、序列第6位の状況室長である鄭准将が警護室長代理を務めることとなった。
  31. ^ 当時、崔大統領は大統領当選からさほど日が経っておらず、大統領官邸には移らずに国務総理公館を利用していた。
  32. ^ 当時、第1空挺特殊作戦旅団の将兵たちも軍中枢である国防部と陸軍本部を攻撃目標とするような暴挙に近い命令に対して疑問を生じ、その出動に一時躊躇し部隊を引き返した。よって、旅団長自身が部隊に帰着し直々兵を連れて来るのが最も効率的な方法であるというような全斗煥らの思惑からの行動。
  33. ^ 当時特殊戦司令部は直接指揮下の兵力を持たず、第3空輸特戦旅団の駐屯地内に司令部を置いていたため、もし第3空輸特戦旅団がクーデターに参加した場合容易に攻撃されてしまうという致命的な弱点があった。この反省とソウルオリンピック開催に伴う対テロ作戦対応の必要性に基づき、1982年に司令部直属部隊である第707特殊任務大隊が創設された。
  34. ^ その後、金少佐の遺体は特殊戦司令部の裏山に仮埋葬されたが、クーデターの翌日である12月13日、新たな特殊戦司令官として着任した鄭鎬溶少将(全斗煥や盧泰愚の陸士同期でハナフェのメンバーでもあったが、第50歩兵師団長だった粛軍クーデター時は大邱からソウルに戻る途中で直接参加はしなかった)の命令で部隊葬が行われ、国立ソウル顕忠院の遺体安置所に移された(1980年2月末に正式埋葬)。また、鄭少将は崔准将に対し、銃撃戦に発展したことに苦言を呈したという。
  35. ^ 野戦砲兵部隊による第30警備団攻撃も考慮されたが、こちらは周辺の住宅地や国務総理官邸も巻き込む恐れがあったため実施されることはなかった。
  36. ^ 1979年10月当時は陸軍参謀次長だったが、朴正煕暗殺事件発生後から本クーデターまでの間は金載圭の後任としてKCIA長官代理を務めていた。その後も光州事件における戒厳司令官も引き続き務め、1981年12月に黄永時を陸軍参謀総長の後任として退役した。退役後は繊維協会会長、運輸部長官、住宅公社理事長を歴任し、民主化後に行われた裁判において、光州事件の流血鎮圧の責任を問われて懲役7年の判決を受けるも特赦されている。
  37. ^ 「新軍部」という名称は、5.16軍事クーデターで権力を奪取した軍部を「旧軍部」として対比する目的で付けられたものである。なお、良く誤解されるが「新軍部=ハナ会」ではなく、「ハナ会が新軍部の中心」というのが正しい。実際、新軍部はハナ会が中心だったものの、その後援者だった非ハナ会メンバーも含んでいた。
  38. ^ 「兵力出動を反対していた尹次長のおかげで国軍同士の全面衝突が回避された」という新軍部の思惑からその「功績」に対する報酬であるとも考えられる。よってその後尹中将は翌1980年5月順調に大将に昇進し、国家保衛非常対策委員会委員、合同参謀本部議長を歴任した上、退役後は国防部長官も務めていた。
  39. ^ アメリカは当初より粛軍クーデターに反対していたが、北朝鮮の南進阻止を優先した他にも情報の混乱も相まって初動が遅れ、結局介入の機を逃し、なし崩し的に黙認せざるを得なかった。そのため、後に大統領に就任した全斗煥はアメリカの感心も買う目的も兼ねて積極的な親米政策を展開することとなる。
  40. ^ もっとも1970年代当時、韓国軍の軍令(平時における作戦指揮権)・軍政(人事権など)権はいずれも各軍の参謀総長が握っており、それに対して国防部長官を補佐する合同参謀本部議長はほとんど実権が無い名誉職の意味合いが強い役職だった。2020年代現在のように合同参謀本部議長に平時の作戦指揮権が与えられるようになるのは、1990年代の盧泰愚政権以降に各政権が行ってきた軍改革を待たなければならない。
  41. ^ 12.12직후 전두환 제거 역쿠데타 모의있었다[이우호]”. 文化放送 (1999年5月16日). 2024年8月29日閲覧。

参考文献

  • 尹景徹『分断後の韓国政治 : 一九四五〜一九八六年』木鐸社、1986年11月30日。NDLJP:12173192 
  • 金容権編著『朝鮮・韓国近現代史事典 1860-2005(第2版)』日本評論社 

関連項目

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