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この項目では、パキスタンの政党について説明しています。一般的な民族運動については「民族主義」を、その他の政党については「統一国民運動」をご覧ください。 |
統一民族運動(ウルドゥー語: متحدہ قومی موومنٹ、英語: Muttahida Qaumi Movement、略称MQM)はパキスタンの政党。ムッタヒダ民族運動、ムータヒダ民族運動と表記される場合もある。
1984年3月18日に独裁者ムハンマド・ジア=ウル=ハク大統領がパキスタンを支配する下で、学生運動団体の全パキスタン・ムハージル学生機構(英語版)(1978年結成)を母体にアルターフ・フセイン(英語版)によって創設。当時の党名はムハージル民族運動(英語: Muhajir Qaumi Movement、略称はMQMで現在と同じ)で、1997年に現在の党名に改称した。インド・パキスタン分離独立時にインドから逃れてきたウルドゥー語話者のムスリム難民であるムハージル(英語版)を支持基盤とする政党で、地域的には南部シンド州の、特にカラチ市内に強力な票田を有し、シンド州内ではパキスタン人民党に次ぐ勢力として推移してきた。また全国規模でも第3勢力となることが多かった。
ムハージルにはスンナ派、シーア派の双方を含み、またその出自も多様であったことから、党としては自由主義(社会自由主義)・世俗主義的で中道左派色が強く、その点でもパキスタン人民党と競合してきた。このため抗争も多く、1992年から1994年にかけては中央政府・軍と民兵による掃討戦、クリーンアップ作戦(英語版)の対象とされ、多くの犠牲者を出した。また2006年にはカナダ連邦裁判所(英語版)からテロ組織の認定を受ける[1][2][3]
など批判も多く、その穏健なイデオロギーにもかかわらず対立者からはファシスト視されることもある[4]。
パルヴェーズ・ムシャラフ大統領の軍事政権に対してはパキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派と連携して協力姿勢を採ったが、2007年からパキスタンで民主化運動が活発化し、ムシャラフ大統領に抵抗する一大運動に発展すると、2008年のパキスタン下院総選挙(英語版)を経てパキスタン人民党のユースフ・ラザー・ギーラーニー首相率いる連立政権に参加した。しかし後に経済政策などで対立し野党となったため、ギーラーニー政権を著しく弱体化させることとなった。
2013年のパキスタン下院総選挙(英語版)ではイスラーム過激派のパキスタン・ターリバーン運動からテロの対象にされる[5]なか、一定勢力を維持した。
脚注・出典
- ^ “Judge orders deportation of Pakistani party chief”. Canada.com. http://www.canada.com/nationalpost/news/canada/story.html?id=c045bc85-f122-423e-bcad-8cc6f2f20031 14 May 2013閲覧。
- ^ “MQM declared a terrorist organization by a Canadian Court”. Karachi Express. http://karachiexpress.wordpress.com/2011/04/15/mqm-declared-a-terrorist-organization-by-a-canadian-court/ 14 May 2013閲覧。
- ^ “Canadian federal court upholds MQM’s ‘terrorist character’”. Daily Times. (September 17, 2007). オリジナルの15 Jun 2013時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/MNhHf 14 May 2013閲覧。
- ^ Das, Suranjan (2001), Kashmir and Sindh: Nation-Building, Ethnicity and Regional Politics in South Asia, Anthem Press, p. 131
- ^ パキスタン総選挙 タリバン運動の攻撃が激化(産経 2013.4.24)
外部リンク