草森 紳一(くさもり しんいち、1938年2月23日 - 2008年3月19日)は、日本のマンガ、広告、写真評論家。
生涯
北海道河東郡音更村(現・音更町)生まれ。長男の渡部幻は映画批評家で編集者。長女の東海笑子は翻訳家。
北海道帯広柏葉高等学校を経て、1浪後慶應義塾大学文学部に入学して中国文学科に進む。大学時代は奥野信太郎や村松暎に師事。また慶應義塾大学推理小説同好会に参加、このときの先輩に紀田順一郎や田波靖男がいる。
映画監督を志望し、1960年に東映の入社試験を受けたが面接で失敗。
1961年、大学卒業後は婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し、『男の服飾』を『MEN'S CLUB』に改名する発案をする[1]。編集室にあった『ELLE』『Mademoiselle』『PLAYBOY』『COSMOPOLITAN』『GQ』等に刺激を受ける[1]。その後『婦人画報』編集部に移り伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』などを担当。
真鍋博の推薦で『美術手帖』にマンガ評論を書き始める[1]。
1964年に退社し、慶應義塾大学斯道文庫勤務や慶應義塾大学文学部非常勤講師などを経て評論家となる。1973年『江戸のデザイン』で毎日出版文化賞受賞。マンガ、広告、写真など当時、文化の周縁とみなされていたジャンルを論じる著作が多い。
心不全により満70歳で死去後、その蔵書は音更町の帯広大谷短期大学に寄贈され、そのうち約二千冊を展示する「草森紳一記念資料室」が同短大にオープンした。その他の蔵書は、音更町の廃校となった旧東中音更小学校に保管され、ボランティアによって整理が進められている[2]。蔵書の目録化も進行中で、校正を終えたものは帯広大谷短期大学のホームページで見ることができる。
エピソード
- 莫大な数の蔵書を保有していたことで知られる。本人によると、30歳前後からいわゆる「資料もの」といわれる仕事をするようになって、本がねずみ算式に増殖した。「ひとたび『歴史』という虚構の大海に棹を入れると、収入の七割がたは、本代に消える。異常に過ぎる。いっこうに古本屋の借金は、減らない」と、自著『随筆:本が崩れる』に記している。
- 当面仕事で使う可能性の少ない3万冊は生前、北海道の実家に建てた高さ9メートルの白い書庫「任梟盧」(にんきょうろ、李賀の詩による[2])に移した[3]。終の棲家となった東京都江東区門前仲町の40平米、2DKマンションは蔵書で埋まっていた。月に少なくとも150冊は買うから2年で2千冊、この部屋に越して20年経つのでたぶん4万冊は下らないというのが草森の計算(実際は約3万2千冊)。部屋をさがすにあたっての必要条件は、壁面確保のため、窓が少ないことだった。「本の隙間にボクは住まわせてもらっているんだ」と語っていたという[4]。
著書
編著
訳書
関連項目
回想・伝記・評論
- 『草森紳一が、いた。―友人と仕事仲間たちによる回想集』草森紳一回想集を作る会、2010年
- 柴橋伴夫著『雑文の巨人 草森紳一』未知谷、2020年
- 愛敬浩一著『草森紳一の問い』書肆山荘、2021年
脚注
外部リンク