葛西 晴重(かさい はるしげ)は、戦国時代の大名。陸奥葛西氏第14代当主[2]。子に守信(もりのぶ)、晴胤。養子に晴清(伊達稙宗の七男)。
略歴
文明元年(1469年)、第13代当主・葛西政信の三男として生まれる[2]。永正3年(1506年)の父の死去により家督を継いで当主となる。慣例により、室町幕府第12代将軍・足利義晴より偏諱の授与を受けて晴重と名乗る。
天文2年(1534年)12月21日、死去。享年65。一説に享禄4年(1531年)に死去したとも[2]。長男の守信や養子の牛猿丸(晴清)が早世していたため、家督は三男の晴胤が継いだ。また、一説によれば養子の牛猿丸とは晴胤のことであり、晴重が養子として迎えたものとされている[7][2]。
脚注
- ^ a b c d e f g h 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238 より。
- ^ 別名の「稙信」については、長男の守信が第10代将軍足利義稙から偏諱の授与を受けて「稙清」、3男の晴胤が第11代将軍足利義高(のちの義澄)から偏諱の授与を受けて「高信」と名乗ったとされることから、おそらく父である晴重も同様に拝領を受けて最初はこちらを名乗っていたものと思われる。守信、高信の「信」も稙信から取ったものと考えられるのでその可能性は否定できないが、義稙がその名前を名乗ったのは義澄の辞職後、将軍に復帰してからのこと(それまでは義材→義尹)であり、逆転現象が起きているためこの点矛盾が生じている。
- ^ 仙台藩系の系図 より。
参考文献