蒲生 頼郷(がもう よりさと、? - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将。諱は真令(さねのり)とも。通称は喜内。また、備中守を名乗った。
なお、頼郷と同じく蒲生氏の元家臣で、蒲生姓を与えられた蒲生郷舎と混同されがちであるが、別人とされる。
生涯
近江国蒲生郡日野の横山村出身。初名は横山喜内。初め六角氏の家臣であったが、織田信長の上洛時に六角氏は滅亡したため、蒲生氏に仕えた。本能寺の変の際には日野城に籠城する。天正15年(1587年)、九州征伐に従軍して、岩石城攻めで軍奉行を務めた。戦後、主君の蒲生氏郷より「蒲生」の姓と「郷」の一字を与えられ蒲生頼郷と名乗った。氏郷が会津に移ったときには塩川城代を務め、1万3,000石を知行し、のちに梁川城代を務めた。
蒲生秀行の下野宇都宮移封後に出奔し、石田三成に仕えた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島清興とともに奮戦し、不利な状況のなか、東軍の織田有楽を負傷させるなどの活躍をみせるが、その後千賀文蔵兄弟に討ち取られた[1]。
登場作品
脚注
- ^ 『豪雄言行録』[要文献特定詳細情報]
参考文献