藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。
生涯
藤原北家魚名流の出身で、鳥羽院政期において、鳥羽上皇の第一の寵臣として活躍する。中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。長承元年9月24日(1132年11月3日)、上皇が宇治に御幸して平等院の経蔵を見物した際、藤原忠実は他人を絶対に入れない方針を破り、家成を特別に経蔵の中に入れた[1]。長承3年(1134年)、家成はこの経蔵を参考にして鳥羽殿に勝光明院と宝蔵を造営する。
藤原忠実は家成と協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成を「天下無双の幸人なり」[2]と評して、その勢威に警戒感を示した。天養2年(1145年)2月25日、家成は義弟・源雅通と娘婿・藤原公親を前駆として比叡山に登ったが、頼長は清華家(英雄家)出身の雅通・公親が諸大夫出身の家成の前駆を勤めたことを、「永く英雄の名を失う」と非難している[3]。
こうしたことを背景に、仁平元年(1151年)、従者同士の諍いを口実にした頼長に邸宅を襲撃され、散々に破壊されるという災難を蒙っている。この頼長の性急かつ短絡的行動は鳥羽法皇の激怒を買い、頼長の失脚とそれにつながる保元の乱勃発の伏線となった。
仁平4年(1154年)、飲水病(糖尿病)の悪化により死去した。生前、現在の京都市東山区鷲尾町に山荘兼寺院を建立し、死後はそこに葬られた。また子孫は羽林家の一つ四条家・山科家として繁栄した。
人物
- 父である藤原家保は白河法皇の側近であったが、家成は鳥羽法皇の引立てを受けてその白河法皇側近の排除に協力した結果、嫡流としての地位を得た。家成は失脚した父の権益を継承したのに対し、長兄の顕保は家成に昇進を妨害されて播磨守で没し、他の兄弟も保元の乱で崇徳上皇に近い立場を取って没落する事になる。なお、家成が白河法皇崩御の翌月には鳥羽殿の預に任じられており(『長秋記』大治4年(1129年)8月4日条)、この時には既に鳥羽上皇の側近としての地位を固めていた[4]。
- 平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる。
- 勅撰歌人として、『詞花和歌集』(2首)・『続拾遺和歌集』(1首)に作品が入集している[5]。
官歴
系譜
- 父:藤原家保
- 母:藤原宗子(藤原隆宗の女) - 堀河天皇の典侍、後に崇徳天皇の乳母
- 妻:高階宗章の女
- 妻:藤原経忠の女
- 妻:綾大領貞宣の女
- 男子:藤太夫章隆-讃州藤家(羽床氏や香西氏など)の始祖
- 生母不明
- 養子女
- 猶子:藤原師光(西光)(? - 1177年) - 実は麻植為光の子
関連作品
脚注