西村治兵衛14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日[1])- 1910年(明治43年)12月14日[2][3])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)[4]。旧姓・矢田。 経歴丹波国桑田郡、のちの京都府[2]南桑田郡亀岡町[5](現亀岡市)で、素封家[6]・矢田勘助の二男として生まれる[5]。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた[2][3][5]。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる[4][5]。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した[5]。 家業を継承しその発展に尽力[5]。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた[2][3][5][7]。京都実業界では、京都商業会議所会員、同理事、京都臨時勧業委員長、京都市常設勧業委員長などに在任し、1901年(明治34年)京都商業会議所会頭に就任した[2][3][5][7]。銀行界では、京都商工銀行取締役、同副頭取、京都商工貯金銀行頭取、京都組合銀行集会所委員長を務めた[2][3][5][7]。鉄道界では、関西鉄道常議員、同取締役、同監査役、京都鉄道取締役に在任[2][3][5][7]。 博覧会関係では、第4回内国勧業博覧会審査員、内国勧業博覧会評議員、同博覧会審査嘱託、第5回同博覧会評議員、同博覧会審査嘱託、日本大博覧会評議員、セントルイス万国博覧会織物審査官を務めた[2][3][5][6][7]。 政界では、京都市会議員に選出され、同参事会員、同議長、同市教育委員長などを務めた[2][3]。1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(京都府京都市、無所属)で当選[5][8]したが、議員1期目[2][3]の在任中、1910年11月に発病し[5]、翌月に死去した[5][9]。 脚注
参考文献 |